札幌、キャンプ・クロフォードでの米陸軍の第31歩兵連隊
米陸軍の第31歩兵連隊は設立100年を越える由緒ある部隊らしい。シベリア出兵からイラク戦争まで外征戦争を戦ってきた。愛称が北極熊連隊(polar bear regiment)というとのこと。これらのことは、以前に書いたことがある(愚記事:札幌に"北極熊"がいた頃;1948-1950)。
最近、この連隊があの「バターン死の行軍」の生き残り部隊であると知った。
バターン死の行進とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍の捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡したとされる行進のことを言う。全長は120kmで、もともとはその半分弱は鉄道とトラックで運ばれる予定であったが、計画を立てた当初の捕虜の予想数と、実際の捕虜の数に多く違いがあり、結局100kmを超える距離を難民と捕虜は歩かせられた。 (wikipedia)
この「バターン死の行軍」については、アメリカ真理教 親米派の岡崎久彦尊師も激おこプンプンである;
それ(シンガポール陥落も時、兵糧攻めにしないで直接攻撃、占領したこと;いか@)よりも、もっと重大な失敗は、バターンでは力攻のあと、半ば飢えているアメリカ兵をマニラまで歩かせて「バターン死の行軍」をさせたことです。戦前のアメリカの孤立主義というのは根深いもので、真珠湾のあとでも、まだまだ「戦争をすぐやめてしまえ」という意見が議会でさえ強かったのが、「バターン死の行軍」ですっかりあとを絶ったそうです。(岡崎久彦、『戦略的思考とは何か』)
なお、2009年(平成21年)5月に、藤崎一郎駐米大使が、バターン行進の生存者で作る団体「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」の年次総会に出席し、日本国政府を代表して、バターン死の行進について謝罪した。(wiki)のだという。
▼ 2005年に『文藝春秋』に笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』が掲載(google)。「死の行進」の距離はたいしたことない、という視点を与えた。話題、論争となる。詳細はリンク先のgoogleから探っていけば、いろいろわかる。
■ バターン死の行進は、「真珠湾の卑怯なだまし討ち」という惹句に次いで反日宣伝(プロパガンダ)として有名。
そのバターン死の行進の渦中に、米陸軍の第31歩兵連隊(北極熊連隊;polar bear regiment)はいたとのこと。
バターンで降伏した第31歩兵の1600人のメンバーのおよそ半分が日本軍の捕虜となっている間に死亡した。(31st Infantry Regiment (United States) wikipedia、 機械翻訳)
■ 札幌に来た経緯
第31歩兵連隊(北極熊連隊)は、1945年、戦争終結後、大日本帝国領であった朝鮮半島の占領に従事した。第7歩兵師団の1部隊としてソウルに駐屯。1948年、南北朝鮮から米軍とソ連軍がそれぞれ撤退した時、第31歩兵連隊(北極熊連隊)は、札幌に移駐した。第31歩兵連隊(北極熊連隊)の日本初上陸。札幌に移駐した時、それまでキャンプ・クロフォードに駐屯していた第11空挺師団と交代、あるいは一部吸収した。
■ 去って行った経緯
そして、おっとり刀で。 第31歩兵連隊(北極熊連隊)は、2年で札幌を離れる。朝鮮戦争が勃発したからだ。「Do you know the way to Korea, in the Camp Crawford ?、キャンプ・クロフォードにおける鉄道引き込み線」は次回のこころだ。