▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第282週
■ 今週の武相境斜面
■ 今週のメタセコイア
■ 今週のヒエラルキー無視;いきなり巨幹から
■ 今週の花
■ 今週見つけた画像1
General William C. Chase and private Paul Davis ; チェイス少将 (右) とデイビス上等兵 の別角度からの画像
愚記事;1945年夏の敗戦、東京入城の米軍は八王子方面から の映像・画像とは別角度
■ 今週見つけた画像2
伊藤隆、『日本の近代16 日本の内と外』より
愚記事;札幌郊外の「アメリカン・スクール」(1946-1958);道庁から9km;敷地は牧場をつぶしたのだ。でエドウイン・ダンの絵画を示したが、舞台は東京。札幌でのエドウイン・ダンの画像があった。何と、明治10年、西暦では1877年。オーストラリアではアボリジニ狩りがまだ行われていた時代。
■ 今週知ったこと;オーストラリアのアボリジニ狩りは、少なくとも、1928年まで続く
1788年からのイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを虐殺した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に実際に残されている。wikipedia
1928年といえば、対米英戦争(1941年)のわずか13年前だ。もっとも、われらは豪「国」を英国の属領と思い、直接宣戦布告しなかったのだが。
この根拠は、高山正之の文章とのこと;
アボリジニ殺しは20世紀に入っても続き、ニューサウスウェールズ州立図書館に残された資料には、1927年の日付で「今日の収穫アボリジニ17匹」とある。当時は日曜日にみんなでアボリジニ狩りをしていた。(ソース)
一方、wikipediaのList of massacres of Indigenous Australians に詳細がある。
1928年の コニストン虐殺 :1928年8月、 ノーザンテリトリー警察の ウィリアムジョージマレーが 、 コニストン牛舎の西側にある滝壺で、先住民によるフレッドブルックスという白人の殺害を調査するよう命じられました。 マレーは、1928年8月から10月まで一連の懲罰的遠征を主導し、公式には31人の主にワールピリとカイテティの人々の死をもたらしました。 マレーと共に大量殺人に参加した他の男性には、地元の地主ウィリアム「ナゲット」モートンとランドールスタッフォードが含まれました。 ジョンソンサックスビー、ウィリアムブリスコー、アレックスウィルソン。 そして、Paddy、Dodger、およびMajorの名前で行った3人のアボリジニトラッカー。 既存の文書と生き残ったアボリジニの証言の分析は、この警察活動中に100人から200人の間のどこかで公式の死者数よりもはるかに多い数が射殺されたことを示しています。(機械翻訳)
敗戦後、渋谷の豪兵
東京裁判の裁判長って、ウエッブという、豪人だった。何が情けないって、我らが宣戦布告する13年前までアボリジーニ虐殺をしてた奴らに「文明の裁き」とやらをされたことだよ。
■ 今週の「ブログ開設から」
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