週末は仙台に行った。宮城県立美術館で催されている『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』を見物に行くためだ。宮城県立美術館に行くのは6年ぶりである。その時は『州之内コレクション展』だった(愚記事;2009/6/7)。両展示企画に共通なことは、州之内徹も針生一郎も作家さんではないことである。針生一郎は展覧会主催者によればこうである;
仙台市出身の針生一郎(1925-2010)は、文芸評論から出発しましたが、1950年代に刊行された雑誌『美術批評』に芸術論や展覧会評を寄稿して注 目され、中原佑介、東野芳明とともに“美術評論の御三家” と呼ばれる存在となりました。戦後、美術が自律した芸術表現として純粋性の追求に向かう潮流の中で、針生は一貫して「社会と人間」という視点をもって、作 家たちの表現行為と作品を批評してきました。そして、行動する評論家として、晩年までさまざまな文化運動にも関わり続けました。
現実を見据え、そ こに前衛としての芸術家の在り方と創作の意義を問い続けた針生の思想と活動は、敗戦から今日に至る日本の美術史に、ひとつの地下水脈を形成してきたといえ ましょう。この展覧会では、主に1950~70年代に針生が関わった芸術運動や展覧会に焦点をあて、著書『わが愛憎の画家たち』などで論評した作家と作品 を紹介し、ひとりの評論家の視線を通して戦後美術史を再読します。 (宮城県立美術館 web site)
なぜ、おいらが行ったかというと、針生一郎について興味があったからだ。今の時点でも、おいらは、針生一郎についてよく知らないのだが、現時点での認識に到った経緯は次のようなものである。
おいらが「針生一郎」を知ったのは、1980年代中頃、自民党・中曽根政権が300議席取った頃だ(関連愚記事;私もあなたもニューライトよ)。その時、彼の文章とその内容だけが記憶に残り、「針生一郎」という名前やどういう人かということに頭が回らなかった。興味、関心がなかったのだろう。たとえ話でいうと、好みの絵画作品を知ったとき、その絵のイメージだけが強烈に脳内に焼き付けられたが、その作家さんの名前を知らずにいたようなものだ。その「針生一郎」の文章というのは、今から見れば、1985年の『二十世紀の遺産』(永井陽之助 編)という30人あまりの永井と交友のある"著名"学者(ほとんどが保守系・穏健の有名だが普通の=全然危険でない学者)の寄与小論文から構成された624ページに及ぶやや厚い本である。その中で高等学校時代(旧制)の思い出を書いたのが「針生一郎」で、1944年夏、サイパン島陥落を受けて、第二高等学校の生徒が集会を開く話を書いていた;
永井陽之助とわたしは、戦争中の旧制二高文化乙類の同級生で、しかも二人だけ結核のため留年し、学徒出陣も工場動員もまぬがれた。サイパン島玉砕のとき、全校決起集会があると聞いて、療養中のわたしが出かけると永井もきており、二人あいついで発言する破目になった。もっとも、当時永井はハウスホーファーなど の地政学に共鳴し、わたしは日本浪漫派に傾倒していたから、どちらも右翼的にしろ発言内容は対照的だった。あれから四十年余すぎて、二人の立場は大きくか け離れたともみえるが、どちらも本質は変わらず、あの夜の発言の差異を拡大してきただけかもしれない。わたし自身をふりかえると、「近代の超克」という課 題が、みはてぬ夢のように一貫しているのに気づく。
敗戦直前の日本えすだぶりっしゅめんと・「エリート」養成現場の生々しい実状をこのように書いた文章を見たこともなかったので強烈に記憶に残った (この話では愚ブログで何度もしていて、繰り返しで恐縮ではある; 愚記事 ①、②)。
当時でも今でも戦時下の帝大生や(旧制)高校生は戦争に巻き込まれ、不本意にも戦争に駆り出された本当はinnocentな犠牲者のごとき認識が定着しつづけている。そんなのは嘘っぱちで、戦争が対岸の火事こ頃は観念的に政府の流布するお題目を礼賛し銃後でのんびり暮らし自分の栄達を夢想し、戦況の悪化で、本当に鉄砲を担いで、戦場に行かねばならぬときは、唯々諾々と従ったのだ。つまりは、お調子者であり木偶の坊であったということだ。その点、この「針生一郎」の作品はすごい!。ちゃんと、ウヨ人生を表現している。
そうなら、なぜ当時のおいらは、自分のウヨ性のモデルになりうる「針生一郎」を探さなかったのか?という疑問が今の若い人からはおきるかもしれない。言い訳すると、当時はネットというものもなく、書物としても「針生一郎」を探すには、本屋にある「全書誌録」(みたいな名称)というもので、その人の著作を知り、内容を全く分からない状態で本を注文する、という作業方法しかなかったのである。昭和末期の事情である。さらには、自分のウヨ性のモデルは、既に、江藤淳や西部邁がおり、good enough!だったのだ。(後日加筆;[20世紀末の]江藤淳や西部邁って右翼ではないわな。修正追記すると、その頃おいらは大川周明、葦津珍彦も読んでいた。でも葦津珍彦が神格化する"西郷隆盛"は嫌いだし、今も理解できない。つまりは、おいらは近代ウヨ=俗流ウヨなのだ。ネトウヨにふさわしいではないか!)
敗戦時の針生一郎の「国粋」=「日帝への絶対忠誠」ぶりはすごい。もっとも、その根拠はすべて本人の供述に基づくもである。その回顧が作品としてすごい。針生一郎の本人の述懐によれば、敗戦の玉音放送を聞いたあとも敗戦を受容できす、恩師の陸軍にいた元教え子が飛行機を無断で操縦して、仙台に来た。ポツダム宣言受諾をひっくりかえそうという謀議を3日間したのだという。
さらにすごいエピソードがある。敗戦に先立つ7月の仙台空襲で第二高等学校の奉安殿が焼失した。B-29にやられたのだ。その時、針生一郎は奉安殿焼失の責任を追及して校長である阿刀田令造(阿刀田高の伯父)の「官舎に行って、御真影を焼いたのはあなたの責任だから、僕らが見ているから目の前で切腹しなさいって言」ったという(ソース;針生一郎オーラル・ヒストリー)のだ。
針生一郎は1925年生まれ。敗戦時、はたちである。はたちと言えば戦争で一番「活躍」する年代であり、事実、あの戦争では1925年生まれがたくさん死んだのであろう。針生一郎は結核で戦争に行かず、死ななかった。保田與重朗に耽溺した観念右翼であったのにである。つまりは、"死に損ない"である。その点、三島由紀夫と似ている。
そして、そういう「右翼」的言動の原因を下記のように晩年は回顧している;
戦争中何故右翼になったかというと。僕は結核で休学してしまった。学徒出陣の世代なんだけども、徴兵検査で僕だけ徴兵管区で丙種になった。第一乙、第二乙 くらいまでは、徴兵召集令状が来ることがあるんだけども、丙種というのはほとんど兵役をまぬがれちゃうんだ。それが戦争中は非常に負い目で、コンプレック スだった。だから療養中雑読して、その中で、ときのオピニオンリーダーだった保田與重郎に一番傾倒した。だから非常に神道的な純粋右翼だった。
(時は流れ、昭和も終わり、21世紀となった)
再見! 針生一郎
そして、元来純粋な「針生一郎」に、おいらが「再会」したのが、既に昭和も終わり、かつ、遠くなりつつあった、21世紀に入ってのことである。21世紀の「ゼロ年代」(笑い)においらは文革(中国 文化大革命)に興味を持って、少し調べ始めた。そのなかで、文革を礼賛した日本人文化人を紹介した文章で、針生一郎に再会したのである。すなわち、文革時に支那に行き、その支那文革に感動した文化人のひとりに針生一郎がいると。なお、その時点で上記1944年夏のサイパン島陥落第二高等学校決起集会の思い出の作文者は針生一郎であると認識していた。
その文革を礼賛した日本人文化人を紹介した文章を読んだ時点で、「あ~やっちまったな、針生一郎」と直感した。確認のためおいらは、『針生一郎芸術論集 文化革命の方へ』(朝日新聞社 刊、1973年)を中古市場で買って読んだ。針生一郎は、「われわれにとって文化大革命とは何か」という文章を書いていた。これは、中国の文化大革命を見にいった見聞録である。同行は宇井純、鶴見良行、むのたけじ等。「われわれにとって文化大革命とは何か」の文章は中国共産党が書いた文章をもらったのではないかというくらいの全く批評性のない文章。例えば;
それにしても、わたしは中国革命の原点である延安を訪れて、抗日戦争のさなかに、この奥地でなしとげられた事業にほとんど圧倒された。一見退却ともみえる二年余の大長征を経て、八路軍がここにたどりついたのち、党と軍の根本的な再建をはじめ、開墾、農・工生産、解放区の自治、大衆工作、学習など、すべてが統一的におこなわれたのである。ハン・スーインの『毛沢東』によれば、中国革命は五・四運動以来、文化革命の性格をもっていたというが、延安時代には、今日にいたるすべての問題の原型がすでにふくまれていたのである。「文芸講話」の「文芸」が、文学や芸術だけでなく、歌舞、演劇、祭りなどをふくめた大衆工作の意味であることも、今度わたしははじめて知った。(針生一郎、『針生一郎芸術論集 文化革命の方へ』、「われわれにとって文化大革命とは何か」)
この無邪気、無批判に驚くことに加え、おいらが二重にびっくりしたのは、中国共産党に「新左翼」御一行さまと認定された針生らが「文化大革命」を見に行ったのが、1973年なのである。文革開始後既に7年。その出鱈目さや悲惨さが知られつつあった。何より、ニクソン訪中、角栄訪中の後、しかも日中国交回復の後だ。文化大革命は1966年に始まり、1968年にはひとだんらくしていた。文化大革命は毛沢東の死まで10年という長期にわたりなされた。でも、この1973年は四人組の跋扈に一般庶民は嫌気がさし、なにより政府機能がマヒし、国家存続が危うかったので、毛自身が「米帝」や「日帝」と手を組むことを決めた後の時代である。林彪事件は1971年である。こういう状況で、のこのこと「文化大革命」にしびれた"純粋な"針生は中国に行き、見聞録を書いたのだ。
そして、おいらは、針生が日帝や支那文革にしびれたのを、現時点の視点からみて、「スカばっかりひいていた針生一郎」と揶揄したいわけではない。むしろ逆で、 日帝や支那文革に無邪気に、正にその時代に実経験として、純粋に、心からしびれて、楽しそうだな、とうらやんでいるのである。
楽しそうな針生一郎の脳内イメージってこういうもの(愚記事より①、②)だろう[画像α]↓ なぜなら、今回の展示主催者だってちゃんと「日の丸」で針生一郎を指標していることからも明らかである(画像β)。
画像α 画像β
■ そして、展示そのもの; 展示会のお品書きが「アヴァンギャルドを見つめつづけた反骨の評論家の足跡」のアヴァンギャルドという視点からみれば、リアリズムを超えて真実を穿つアートを見続けたというこことか。そして、展示作品の作者の多くが20世紀初頭のシュールレアリズム、キュービズム、ロシア・アヴァンギャルドの影響を受けて戦前の時期に活動を始めたが、兵隊にとられ(出征し)、戦場の現場を知った作家(アーティスト)の戦中、戦後の作品が目立つ。
阿部合成、「見送る人々」
山下菊二、「あけぼの村物語」; 「日本の敵米国の崩壊」 1943年制作!
山下菊二、 この絵が「日本の敵米国の崩壊」という直截なタイトルを持ち、それが1943年の制作と、おいらは知らなかった。大浦信行の針生紹介映像『日本心中』第2作目のDVDの表紙として、おいらが知ったのは、去年である。
●展示会場には4時間いた。 理由は展示会場で「図録は完売」との情報を知ったからだ。展示会場で大きな椅子があり、見本の図録がおいてあるでしょう。あれの表紙に、完売、と書いてあったのだ。展示会終了前に! なので、後で図録を見ればいいやということができなくなり、図録を読み、作品を再度確認していたら、4時間たった。もっとも、出口付近で流しっぱなしの針生の講演ビデオを見るのにも時間を要した。
● まとめ; 宮城県立美術館で催されている『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』の図録は開催終了前に売り切れていた!