仙台城大手門 宇和島城追手門
伊達政宗の頭蓋骨 (ネットでのパクリもの)
戦国大名で頭蓋骨が残っていて、かつ学術調査された例は珍しいと思う。
伊達政宗は1636年(寛永13年)5月24日朝、江戸の桜田屋敷で死ぬ。70歳。
遺骸はその夜霊柩にて江戸から仙台へ向かう。6月3日、仙台に帰りつく。
翌日、遺骸は石櫃(いしびつ)に納められ、経ケ峰[地名]に埋められた。それが今の御霊屋・瑞宝殿瑞鳳殿に他ならない。
石櫃に納められて安らかに眠れるはずの政宗の頭蓋骨がこうして晒されることになってしまったのは、
1636年に土葬された伊達政宗が1945年7月10日未明に、「荼毘に付された」からである。
テニアン島を出撃したB-29、123機は、焼夷弾で、仙台を空爆した[wiki(仙台空襲)]。
仙台空襲焼失地域
仙台中心からやや離れた森にあった瑞宝殿瑞鳳殿は、なぜかしら、焼けた。上地図の範囲外である。
現在の瑞宝殿瑞鳳殿は再建物である;
瑞宝殿瑞鳳殿を再建する時(1970年末頃)、政宗の遺骸も「あらためた」のだ。
■ そして、1945年に瑞宝殿瑞鳳殿が焼けた時、仙台城の大手門も焼けた。
これは一般市民が住む仙台中心街を焼くより、「理由」が立つかもしれない。
なぜなら、旧仙台城の二の丸は日帝陸軍第二師団があったからだ。つまりは、軍事施設と云える。
日清、日露以来、日帝陸軍第二師団の出陣はこの仙台城の大手門からであった。
▼ さて、先日の宇和島参りで知った。
宇和島伊達家の居城の追手門も戦災で焼失したのだ。
仙台城の大手門が焼失した二日後の7月12日、宇和島もB-29の空爆を受け、宇和島城の追手門(当時、国宝)は焼失した(Google)。
宇和島城追手門
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