いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第372週

2021年12月25日 17時06分38秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第372週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の富士山

■ 今週の花実

レモンの季節らしい。

■ 今週の月

■ 今週の灯油価格

灯油価格は上がっていない。

■ 今週の航空機

■ 今週の置き去り

■ 今週の三田評論

 

『三田評論』がある待合室で、『三田評論』をみた。それは、偶然、2021年2月号であった。その号に、齋藤秀彦、「●福沢諭吉をめぐる人々●  その53 大童信太夫」があった。これは、愚記事;「門閥に介入する諭吉; 福沢諭吉、『福翁自伝』の東西伊達家に関する記述への註、そして疑問」において引用したものだ。ネットで見られる。

三田評論 ONLINE

■ 今週の「支那」満載

<荊の簪を挿した御方>さまが借りてきた、佐野洋子の『北京のこども』を読んだ。「100万回生きたねこ」の題名だけを知っていて、内容は知らず、著者の佐野洋子についても全く知らなかった。この本、『北京のこども』はとても読みやすかった。短い文で、詩のように、自分の幼少体験を描いている。その場所が北京なのだ。なつめの木の広場や水売りと云った何気ないが、北京は大陸の街であることの象徴で綴られている。自宅となつめの木の広場が自分の<世界>で、その外への冒険など幼児の世界観が描かれていて、そうだよなと思う。野垂れ死んでいく乞食、傷痍軍人への慰問などの話も出てくる。そして、お手伝いさん、当時でいう女中である阿媽の思い出がたくさんでてくる。が、名前はない。なお、今、「阿媽」をググると「中国・インドなどの東アジア圏において、外国人の家庭に使役された現地人の召使を指す語。乳母またはメイドに相当する」(ソース)とあった。外国人の家庭に使役という条件がある言葉らしい。そして、このお話の最期で北京から大連に引っ越すとき、この阿媽がどうなったかは、書かれいない。

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『北京のこども』には、支那人、支那服、支那靴という言葉で出くる。現地の人は常に支那人と呼称される。ただ、ひとつだけ「中国人の女学生」という表現があった。なぜここだけなのか、わからなかった。

さらには、支那猫という言葉は出てこなかった。猫は「にゃん」という。だから、支那猫=しな・にゃん==死なニャン。支那猫が出てこれば、「100万回生きたねこ」(wikipedia)とつながってうれしかったのだが。

▼ 愚ブログに現れたる「北京のこども」

■ 今週の購書 (ブックオフ)

文庫本(ヘーゲル、精神現象学 下)より上の4冊が110円。この文庫と最下段の本はAmazonでの送料込みの値段より高かった。ブックオフは300円以上の値段の通販より安いか判断は難しい;その場でスマホで確認しないかぎり。

▼ 小泉信三、『福沢諭吉』。この本の存在自体を知らなかった。110円なので躊躇なく贖う。今年は、諭吉の「学問のすすめ」など基本書を読んでいる。動機は、なぜ奴隷制のある(諭吉訪米当時)のアメリカ、奴隷主が創った国アメリカ、先住民を駆逐・虐殺して創った国アメリカを「文明」なぞと認識していたのか知りたいからだ。こういう状況でブックオフに行くと、小泉信三、『福沢諭吉』を見つけた。

小泉信三は「天皇の師として、自由主義者として」という惹句(小川原正道)で飾られるが、おいらの関心亊はこれだ;

小泉信三は戦時中の慶応の塾長であった。上記のように激情的「攘夷」になったとのこと。激情的「攘夷」は諭吉が最も嫌ったものにほかならない。学生を戦場に送る立場であった。戊辰戦争のとき、上野の戦闘を「紅旗征戎吾が事に非ず」と講義を行った諭吉のような贅沢は与えられなかった。というか、諭吉もやらなかった政府への参画を「内閣顧問」として行っていたと清沢の証言でわかる。

慶応の塾長なら、国が決めた戦争だから従事しないわけにはいかない。ただ、せめてスポーツに参加するように淡々とルールに則り従軍すべし」くらいですましておけばよかったのに、「米国の奴隷」とか叫んでしまったらしい。その小泉信三が書いた諭吉の伝記。冒頭、諭吉の生没年とヴィクトリア朝時代が一致するとの指摘。なるほど、そうだ。ということは、諭吉が没した時、漱石はロンドンにて、ヴィクトリア女王の葬列を見送り、その後、『三四郎』で亡びるねと広田に言わせた日本は、諭吉の没後50年もたたず亡びるのであった。何なんだった、文明開化ってことだ。

ところで、戦中の言葉と戦後の行動を整合させると、小泉信三は米国の奴隷となって天皇の師となり、自由主義者であったことになる。

▼ 宇野重規、<私>時代のデモクラシー

110円なので躊躇なく贖う。関心事は南原繁。この本、「<私>時代のデモクラシー」は、南原繁とは関係ない。でも、宇野重規は南原繁を研究中とのこと。これから、著作がでるのだろう。さて、南原繁。

「南の洋(うみ)に大き御軍(みいくさ)進むとき富士が嶺白く光りてしずもる」

「ひたぶるの命たぎちて突き進む皇軍のまえにABCD陣空し」

と、対米開戦時に歌ったとのこと(子安宣邦、『「近代の超克」とは何か』より)。対米戦争開始に狂喜しているのだ。

昨日、今日、対米開戦80年で、巷では「負けるとわかっているはずの戦争という愚かなことをなぜしたのか」という惹句で横溢している。たんと反省する利口な人たちの「素朴」な疑問だ。でも、この素朴な疑問に対する小泉信三や南原繁の御解答が見当たらない。おいらの調査不足なんだろうか?

という背景で、南原繁信者の本を眺め始めたのだ。

■ 今週の購書 (新刊)

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現在起こりそうな、次の戦争は、予想外の形態となるのだろう。でも、考えられうる未来の戦争について知りたくて買った。真珠湾や南京の事例が書かれ、真珠湾を予想したバイウオーターの話などがあり、まずは読んだ。

▼翻訳者の奥山真司さんによると(少なからずの)原著での誤りが直されているそうです;

 



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