いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

蓮實重彦と猿たち

2010年10月31日 11時13分44秒 | その他


―今朝の筑波山麓、かさ地蔵ぶる集積された落花生たち―


■最近読んだ本に共通する"ある"ことに気づいたので書く。

・まずは、四方田犬彦、『歳月の鉛』から;

―パリでの留学を終えた蓮實重彦が教室に登場したのは、一年の秋学期の最初の授業のときだった。彼はまず学生たちに向かって、フランス語で言葉というときにはどのような単語があるでしょうかと尋ねた。何人かの学生がそれに答えた。彼はそれを纏めて黒板にparole, langue, langageと大書きすると、その一つひとつの単語の微妙な意味の違いについて、細かな説明を行い、「この三つの区別がつかないでいると、『言語にとって美とはなにか』のような吉本隆明のように、お猿さんのような本を書いてしまうのです」と、ニコリともせずに語った。―

・次に、渡辺守章、『フーコーの声 思考の風景』の中の渡辺と豊崎光一と蓮實重彦の対談から蓮實の発言;

―いや、もっと形而下にいってね、物理的にこいつは猿だと思っちゃったわけです。なぜかというと、連想の貧しさは恥じ入るばかりですが、彼、変な声出して笑うわけですよ。その笑い方というのは、ぼくが初めて聞いたものでもないし、何度も聞いて知っているんだけども、その笑い方そのものがテープに入ってそれを耳で聞いてると、これはもう猿のけたたましい叫びとしか思えない。そう思ったら最後、彼の動作がすべて猿に見えてきちゃう。―

もちろん、ここで蓮實重彦が語っているのはミシェル・フーコーについてである。

・そして、猿-猿通訳;

中公文庫に吉本隆明、『世界認識の方法』という本がある。その本の冒頭に吉本隆明とミッシェル・フーコーの対談が載っている。対談というにしては、ひとりが一度に3-5ページ分の分量の言葉を語っちゃている。そして、その通訳こそが、蓮實重彦に他ならない。もちろん通訳というより、この2「匹」をぶつける企画・編集・実行・通訳をやったのだ。

やっぱり、猿マニアだったのだ。





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