いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第248週

2019年08月10日 19時09分22秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面

武相境斜面に来てもうすぐ5年。自転車のタイヤを取り替えた。↑旧↓新

武相境斜面は坂道が多い。自転車で移動するとき、下り坂はブレーキをかけながら減速する。そのときタイヤは地面との摩擦ですり減っているに違いない。ブレーキシューの減りも早い。平坦なつくばとの大きな違いだ。

■ 猛暑の日本で、長らく、日本で稼ぐロシア女

愚記事; 日本で稼いだロシア女の帰り先; トレチャコフ美術館のクラムスコイ、《忘れえぬ女》が今年2月。まだ、日本で稼いでいるのだ。今は、山形とのこと。

山形美術館国立トレチャコフ美術館所蔵「ロマンティック・ロシア」

■ 今週の些細; さかのぼられない本歌、あるいは、引用の織物の断片

たまたま読んだ本、『現代日本の地政学 13のリスクと地経学の時代』、日本再建イニシアティブ 著(中公新書)の第6章 アメリカは地政学リスクとなるか、中山俊宏、 の文章に下記あった;

 二〇一六年の夏に公開された映画『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督)には、アメリカに対する屈折した思いが垣間見える。「反米」ではないが、乗り越えたくとも乗り越えられない「苛立ち」のようなものがはっきりと描写されている。日本はいまだ「アメリカの影」(加藤典洋)から脱することができないという思いだ。

日本はいまだ「アメリカの影」(加藤典洋)から脱することができないという思いだ。

「アメリカの影」(加藤典洋)という表記は、本歌(後述)とは違う意味を強調するため、(加藤典洋)を付けたのか?つまり、加藤典洋の使用法は本歌と違う「アメリカの影」の意味であると主張したのだろうか?もちろん、加藤典洋には『アメリカの影』という本がある。その本は3つの章に分けられている。冒頭の章は、「アメリカ」の影 ー 高度成長下の文学、という題で冒頭は、江藤淳が『なんとなく、クリスタル』をほめている、で始まる。つまり、江藤淳について書かれている。そして、江藤淳を知っている人ならば" 「アメリカ」の影 "という言葉は、江藤淳の『成熟と喪失 "母"の崩壊』の中の言葉とわかる。もちろん、加藤典洋は江藤淳を論じているのだから、" 「アメリカ」の影 "を江藤自身の書から本歌取りしているのだ。文学というのは引用の織物らしいので本歌を知っていた方がいいのだ。文学者が印象的な言葉について引用元に言及しないのは、そんな引用は野暮だと思うからであろう。さらには、読者が本歌を知っていることを前提としているのだ。

 しかし現実は、本歌を知らない人も多いので、その印象的な言葉を引用した人の言葉だと思ってしまうこともあるだろう。そもそも、件の映画『シン・ゴジラ』のその屈折した思いが、江藤淳の『成熟と喪失 "母"の崩壊』で語られている「アメリカ」の影、すなわち小島信夫の『抱擁家族』に出てくる登場人物山岸みちよが「アメリカ」の影であるといったものと相違するのかがわからない。

 でも、第6章 アメリカは地政学リスクとなるか、中山俊宏で、なぜ「アメリカの影」(加藤典洋)となるかは別途理由がある。この文章で中山俊宏は、アメリカを再選択する、と見出しを打って、日本としてやらなければならないのは、アメリカを自覚的に「再選択」することである、と主張している。この再選択とは、加藤典洋の現行憲法を再選択する(選び直す)という主張の発想と同じ、あるいは由来する。加藤典洋の発想を尊重しているのだろう。

アメリカの影  : 加藤典洋の書名
「アメリカ」の影 :上記本の冒頭章の題
「アメリカ」の影 :江藤淳、『成熟と喪失 "母"の崩壊』の文章中の言葉

■ 今週の発見

愚ブログに、時代の寵児 空想虚言者  自動制御装置内蔵人間、あるいは、大卒@しかもS3/馬鹿女が支えるインチキ大先生、という記事がある。栃折久美子(wiki)という装幀家について言及している。今週、江藤淳の『小林秀雄』、1965年の普及版の装幀が栃折久美子であった、と気づいた。

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