いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

多摩丘陵縦断散歩;こどもの国駅(横浜)⇒ 武蔵陵墓地(八王子)

2019年04月29日 21時39分37秒 | 東京・横浜

東急電鉄・こどもの国駅(上図、K)から武蔵陵墓地(同、M)まで約26kmを散歩した。多摩丘陵を縦断した。東急電鉄・こどもの国駅は横浜市で多摩丘陵に一番入ったところ。武蔵陵墓地は多摩丘陵のほぼ西端。

1 こども国駅 ⇒ 4 小野路町出口、多摩尾根付近

 

1 ⇒ 3


東急電鉄こどもの国線終点、こどもの国駅。


丘陵地の奥へ入っていく。


(おそらく1980年代頃に)造成された住宅地。

この住宅地(横浜市奈良)の隣は川崎市岡上。川崎市の飛び地がある。のどかな丘陵地農村地域。


住宅開発されていない川崎市岡上を下りながら北上。


朝陽を浴びてまどろむ猫に会った。


鶴見川。東京都町田市能が谷付近。この鶴見川の両脇が比較的平坦地。鉄道や主要幹線が走っている。丘陵地の中の谷筋。


谷筋を走る鶴川街道

3 ⇒ 4


小島資料館


峠にあったキャノンスポーツパーク (造成して平地にしてある)。

 4 南多摩尾根幹線道路・多摩南野 ⇒ 8 野猿峠

 

町田の小野路町を抜け峠を越えて、 南多摩尾根幹線道路の多摩南野交差点に出ると、風景は変わる。町田の小野路町は近代以前の風情を思わせる丘陵地の風景であるのに対し、そこから南多摩尾根幹線道路を挟んで北側の多摩市は人工的開発が施された風景。上の地形図のA-A'が南多摩尾根幹線道路。町田市と多摩市の行政境界とほぼ重なる。そして、北側の多摩市側地域は平坦。以前から不思議に思っていたのだが、今、ネットをググると、果たしてこの新開地(多摩ニュータウン)は丘陵地を切土・盛土で平坦化した造成地と確認できた。以前は造成地に違いないだろうと思っていた。でも、切土だけだろうと勝手に思っていた。それにしても切土だけでこんな平坦にできるのだろうかと不思議に思っていた。でも、今、確認した。盛土で谷を埋めていたのだ。大丈夫なんだろうか?一般的に、谷を埋める盛土は地盤の弱さが問題となる。


黄緑色地域が「大規模盛土」造成地
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/bosai/takuzou/pdf/takuzou03_s22.pdf

 

 
多摩南野交差点


南多摩尾根幹線道路を西へ


鶴牧団地


南多摩尾根幹線道路は低地にある。幹線道路を掘りこんで作ったと思うだが、団地の方が盛土だったら...


メタセコイア通り (google)


小田急、唐木田車両基地


道が下る。相模原台地に向かって下るのだ。おいらはこの先右折。


八王子市に入る。


西の相模原台地方面ばかりでなく、北も大栗川が流れる谷筋に向かい下り坂。


大栗川を渡り北上。


野猿街道。再び丘陵に入り坂を登る。


由木めぐみ 野公園

8 野猿峠 ⇒ 10 小比企町 


野猿峠から低位の面に下る。


北野付近


湯殿川


北野街道

10 小比企町 ⇒ 13  武蔵野陵

 
野猿峠(8)から下って9の北野へ。そこから川で谷となった筋を10へ。実はこの10-11あたりは小比企丘陵と云って多摩丘陵とは区別されるらしい。10から11へは坂を登る。11の京王高尾線のめじろ駅付近は高度の開発されている。造成地なのだろう。そして目白台から再び坂を下り、今度は浅川が作る谷筋に降りる。ここは台地面らしい。


目白台に登る坂。


めじろ台駅。


京王高尾線


目白台から低位面におりる坂。


東浅川公園。メタセコイアの並木。


中央線を渡る。


いちょう並木。


これは昭和の看板と思われる。なぜなら、多摩御陵とは大正天皇の陵のこと。昭和時代には、武蔵野陵はなかった。なお、大正天皇は史上初めて東国に葬られたすめろぎさま。


けやき並木


武蔵野陵:昭和天皇のみささぎ

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも、あけぼのすぎは伸びにけり

■ 与太話

吉田松陰の辞世の句、身はたとひ 武蔵野野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂、において、武蔵と大和は対になっていて、大和魂というくらいだから大和は真正なもの象徴。一方、武蔵は松陰ら反幕府派にとって僭主である徳川将軍が根城とする辺境、野蛮の地ともとれる。さらに、身と魂も対となっている。そんな化外の地である賊の国で死んでいくとも精神性は妨げられないということなのだろう。

それにしても、松陰が望んだ天皇中心の政治の結果、すめろぎさんが武蔵に葬られるとは予想だにしなかったであろう。

<天皇、あけぼのすぎ [メタセコイア]、発見と復古>

さて、その松陰の時代に突如勃興した尊皇思想。(学習院大学教授[当時]の)井上勲は云う;


井上勲、『王政復古』p66

「天皇」は幕末に発見されたのである、と。この「天皇の発見」に発する政治運動を尊王攘夷運動というとのこと。そのひとつの結果が、王政復古である。

ところで、松陰が見たこともないのが、あけぼのすぎ。あけぼのすぎ(和学名)=メタセコイア(通称)が発見されたのは1943年頃、チャイナ奥地、四川省(現在、湖北省)。ただし、化石種としてのメタセコイアは日本人植物学者三木茂によって日本での植物遺物(化石)として報告されていた。つまり、四川省で生きている化石として発見されたということ。かつて「日本」列島にはメタセコイアの森があった。しかし、人類登場前に日本のメタセコイアは絶えた。

 さて、現生種のメタセコイアは発見後まもなく敗戦直後の日本にももたらされた。植物学者のひろひとさんも苗木をもらった。そして、戦後日本に広くメタセコイアの木が植生することとなった。メタセコイアの復古。

昭和天皇はあけぼのすぎが好きだったらしく、かつ、戦後の隠喩として御製に詠んでいる

ということで、昭和天皇陵にはあけぼのすぎが植わっていたのでした。



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