いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

座間散歩; 座間丘陵、開析谷、台地・段丘、段丘崖

2021年02月01日 19時04分46秒 | 散歩

座間を散歩した。小田急座間駅付近は丘陵から台地、段丘崖、開析谷が「地形の標本」が、ところ狭しとある。歴史としては、征服者の街だ。ヤマトタケルを祀った座間神社、そして、日本を征服した米軍の「キャンプ座間」。


1;小田急相武台駅前、2;かにが沢、3;緑ヶ丘の谷、4;栗原中央、目久尻川ほとりの芸軍施設、5→6;県立座間谷戸山公園、7;小田急座間駅、8;入谷(段丘崖)、9;入谷西(台地面)、10;鈴鹿明神、11;番水堂、12;伊奴寝子神社、13;新谷、14;座間交叉点、15;キャンプ座間正門、16;大阪台公園 下


A;相模原段丘面、B;座間丘陵、C;中津原段丘面、D;陽原(みなはら)段丘面

■ 2 かにが沢、 3 緑ヶ丘

神奈川県座間市栗原中央1丁目22;下の地図の右下のバルーン印の場所

あるネット情報(ここ)によると旧軍の施設を米軍が引き継いだものとのこと。

■ ⇒ 5、6 県立座間谷戸山公園


上り坂。座間丘陵を登る。


途中の打越ふれあい公園。見晴らしがよい。


画像右手が、県立座間谷戸山公園。上り坂が続く。

■ 5、6 県立座間谷戸山公園

県立座間谷戸山公園 (web site)

この園内用地図は、上が西(小田急小田原線が南北に走っている)、北は右方向。aからb→c...→gの順序で園内を廻る。この図のaが冒頭の地図の5、gが6に相当する。

県立座間谷戸山公園はとてもよかった。別記事にする予定。

g(冒頭地図の6)の南口から公園を出る。ここは座間丘陵の尾根。西側の台地面に降りる。

■ 県立座間谷戸山公園の南口 ⇒ 7;小田急座間駅


南北方向。南北に細く連なる背骨状の座間丘陵の背骨方向。背骨方向にも高低があることがわかる。


西方向を望む。中津原段丘面と奥の山地が見える。


座間丘陵から中津原段丘面へ下る。

■ 7;小田急座間駅

丘陵を西へ向かい坂を下る。丘陵と平坦地の際を小田急線が走り、そばに昭和の団地が見えた。



小田急不動産・ホシノタニ団地

■ ⇒ 8;入谷(段丘崖)


丘陵から降りた進行方向である西を見た風景。平坦地。中津原段丘面。でも、奥に樹木が見える。これは段丘崖の林。


平坦地。南北方向。台地面が伸びる。


中津原段丘面の西端。

■ 中津原段丘面と陽原(みなはら)段丘面の境界の段丘崖

■ 9;入谷西(台地面)、10;鈴鹿明神、11;番水堂、

■ 10;鈴鹿明神

由緒  創建時期は不詳だが、第29代欽明天皇の御代(539年?〜571年?)に創祀したと伝えられている。一方『正倉院文書』によると、天平年間(729年〜749年)には当地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と呼ばれていたことから、王の名前より「鈴鹿」という字名が付けられたとも考えられている[2]。また、当社の縁起では「遠く伊勢の鈴鹿郷の祭礼において神輿が海上を渡御していた際、暴風によって漂流し相模国入海の東峯に漂着したといい、このことから里人が座間全郷の鎮守として社を創建し鈴鹿大明神を崇め祀った」という伝説も残されている。wiki

■ ⇒ 11;番水堂

■ 11;番水堂

■ ⇒ 再び座間丘陵を登り、キャンプ座間

▼ 思わぬ国連旗


中央の電柱の先の向こうの山(大山? 塔ノ岳?)に着目して下の画像を。


敗戦直後の頃の風景(出典

■ 伊奴寝子神社、座間神社

伊奴寝子神社と座間神社は同じ敷地にある。その敷地は座間丘陵から中津原段丘面への斜面にある。湧水があるのだ。

座間神社: 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)景行天皇の皇子。古事記に「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」とあるように凱旋の士で、東国従伐の途中、伊勢神宮へ参拝し、倭姫命より叢雲鶴剱を得られ、その威霊によって駿河国に於いて野火の難を免れました。そしてその賊を滅ぼされ、相模国より走水の海を渡られ、上総国に入られ東国蝦夷を平定するなど、歴戦のロマンを秘められた尊の御神徳と御功績をお慕い奉っております。座間神社 web site

13;新谷、

これは自衛隊らしい。以前(愚記事;神奈川散歩;小田急・相武台駅→キャンプ座間、基地地下横断→相模公園・メタセコイア屏風)見た光景だ。

14;座間交叉点 ⇒ 15;キャンプ座間正門 へ


先ほど、このトンネルの上を通った。


この隧道は旧軍時代にできたらしい。

15;キャンプ座間正門

[在日米陸軍司令部の設置]
 旧日本陸軍士官学校として使用されていた用地は、終戦後間もない昭和20年9月2日、調達要求書によって同月5日、師団長キング少将の率いる米陸軍第1騎兵師団が進駐し、第4兵站廠として使用するところとなった。そして、昭和25年6月、米陸軍第8軍司令部が設置され、施設名を「キャンプ座間」と呼ぶようになった。当時、近隣の旧日本海軍航空基地であった「厚木キャンプ」(現在の厚木基地)と共に、主として極東各地に往来する米陸軍部隊が船待ちをする一時的駐留基地となった。

 昭和32年7月、西太平洋・極東にいたる米陸軍の指揮・命令を統括する在日米陸軍司令部と基地司令部が設置された。その後、昭和44年9月に在日米陸軍の機構改革によって基地司令部は廃止されて在日米陸軍関東地区司令部と組織が改革され、昭和48年に在日米陸軍の主要部隊として本州駐屯部隊が発足し、昭和50年には太平洋地区米陸軍司令部の廃止に伴い、陸軍省司令部直下主要陸軍司令部となった。それ以後、現在に至るまで組織変更が行われており、平成19年12月に第一軍団(前方)司令部が発足し、第一軍団(前方)・在日米陸軍司令部となった。 (座間市のweb site)

「マッカーサーのペット」の第1騎兵師団は、座間にも進駐していたと知る。札幌朝霞の話は以前にした。

座間は現在、北東アジアの米陸軍の総司令部となるとの報道。米軍の再編。「今度の朝鮮戦争」に備えるのだ。先の朝鮮戦争で中共軍に(一部)壊滅させられた第1騎兵師団もかつてはここにいたのだ。

第1軍団司令部は、米軍再編の一環で、神奈川県座間市にある陸軍キャンプ座間への移転が予定されている。すでに移転の準備の一環として前方展開司令部が座間に設置されている。司令部移転後は、韓国駐留陸軍部隊を含む西太平洋全域の陸軍部隊を指揮下に収めるなど、複数の再編案があるとされているが、いまだはっきりした形は示されていない。wiki

16;大阪台公園 下

■ 武相台前駅

● まとめ;通過町名

相模原市南区相武台

座間市

緑が丘、栗原、栗原中央、入谷、座間、新戸

 



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