1.京浜急行逗子・葉山駅;2.逗子海岸;3.葉山アリーナ;4.森戸大明神;5.神奈川県立近代美術館 葉山館
■ 1.京浜急行逗子・葉山駅 ⇒ 2.逗子海岸
■ 2.逗子海岸
▼ お昼は「大戸屋」
株式会社大戸屋が運営する SEASIDE ITALIAN「CANTINA」(シーサイドイタリアン カンティーナ)[google]
ランチ:サルシッチャと牛蒡のアルビアータ、鶏モモ肉と茸のフルカッセ
■ ⇒ あぶずり港(鐙摺港)・葉山港
あぶずり港(鐙摺港)
葉山港
「ヨットハーバー」のすぐ隣に「やつら」のアジトが目に入った。
■ ⇒ 森戸大明神
森戸大明神(もりとだいみょうじん)は、神奈川県三浦郡葉山町の神社。森戸海岸の南端に、森戸川を挟んで所在している。単に森戸神社(もりとじんじゃ)とも。
歴史
1180年(治承4年)に創建された。源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵し、紆余曲折はあったものの鎌倉を拠点とする勢力を築いた。頼朝は三嶋明神(現・三嶋大社)から分霊を勧請して神社を創建した。以降、歴代鎌倉幕府将軍が訪れる場所となった。当地を所領とする三浦氏の祈願所ともなっている。 (wikipedia)
■ ⇒ 真名瀬海岸(しんなせ かいがん)
⇒ 真名瀬海岸 | 葉山を代表する映えスポットは白いバス停から
この日の散歩では白いバス停には寄らなかった。
■ ⇒ 5.神奈川県立近代美術館 葉山館
■ 5.神奈川県立近代美術館 葉山館
葉山館20周年記念 100年前の未来:移動するモダニズム 1920-1930(google、公式web site )
肝心なのは、神奈川県立近代美術館 葉山。日本での近代は実際には1920年代以降に興隆。特に、関東大震災後の復興での近代化・モダニズムの興隆についての展示。ただし、御存じ、1931年に満州事変、1945年に大日本帝国瓦解。1920年代にモダニズムは1945年の破局への一里塚ともいえる。
企画概要
葉山館の開館20周年を記念して、当館が館名に掲げる「近代(モダン)」の文化が多様に展開した20世紀の20年代を再考します。
1917年のロシア革命と1918年終結の第1次世界大戦により国際的な移動と伝播の時代が到来し、スペイン風邪によるパンデミック後の世界で、芸術家たちは国境を越えて活動しました。中村彝と鶴田吾郎が描いたエスペランティストの詩人ヴァシリー・エロシェンコの肖像を筆頭に、夭折画家・久米民十郎、土田麦僊や前田寛治、藤田嗣治などの滞欧・滞米作品、石本喜久治らが招来したドイツ新興美術、MAVOや三科など1923年の関東大震災とその復興を挟んで都会に展開した前衛諸派、シュルレアリスムの端緒から魯迅の木版画運動まで、大正から昭和へと移る100年前の世界が夢みた新しさの諸相を紹介します。
支那の踊り(久米民十郎 [google])1920年、 支那の賭博室(重松岩吉)1921年(画像ソース)
この時代、ヨーロッパは遠く、日本に一番近い「ヨーロッパ」は上海であったとされる。上海には疎開地があり、ヨーロッパ人・アメリカ人と文化が興隆していたからだ。モダン:近代といえば、事実上、ヨーロッパ化:欧米化であるので、日本に一番近い「ヨーロッパ」である上海:支那は、モダンを求める日本人には特別であった。
▼ 上海、版画、魯迅
この時代(1930年頃)の上海での版画についの展示ブースがあった。以前読んだ本に書いてあった;
また 魯迅は木版芸術の 複数性と民衆性にも注目していた。廉価な費用により 一枚の版木から100枚以上の絵を刷り出すことができる版画は、民衆の現実をテーマとして優れた技術で表現すれば革命の武器たりうると考えたのである。一九三一年八月成城学園の美術教師で夏休みに 兄・内山完造を訪ねて上海に来ていた 内山嘉吉に講師を依頼して、その後は内山完造の協力を得て外国版画展を開いた。またドイツのケーテ・ コルビッツやソ連の芸術家たちなど、多数の外国プロレタリア版画集を刊行しており、中国現代版画復興の父とも称されている。(藤井省三、『魯迅 ー東アジアを生きる文学』)
「木版画講習会記念撮影」 魯迅は前列右から3番目。 内山嘉吉と木版画
展示版画に作家・陳普之(google)の一連の作品があったのだが、題名が印象的だった:「疲れた」、「こんな生活倦きた」、「十字路で迷う」、「金は使い果たし、家にでもいるか」など。作品の画像はネット上にはなかった。
鄭洛耶(鄭川谷)《風景》 1931年
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チラシ(ママ)
■ バスでJR逗子駅へ帰る
まとめ
通過町
逗子市 逗子、新宿、桜山、
葉山町 堀内