- 党大会に御出席の哲学教授さま - (画像:拾い物)
■山口二郎さん問題の余韻の中(愚記事:山口二郎VS橋下徹・ソクラテスはどっちだ!?)、週末にのんべんだらりんと本を眺めいて、気になった言葉やクダリを抜き書き。
ほとんどの人は、被害者家族家族に面識がない。にもかかわらず、被害者の家族は金持ちで、リベラルで、個人主義で、幸福なマイホーム主義で・・・といった想像的なイメージが、「地元のわれわれ」によって憎々しげに語られる。(略)
このような 愚民の憎悪 にもかかわらず、人権を最高価値とする憲法のもとでシステマティックに整備された法が、個人を保護する。 (強調、いか@)
内藤朝雄、『いじめと現代社会 -「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ-』 (Amazon)
うーん、すごい。「愚民の憎悪」。おいらのブログのタイトルにしたいよ。
でも、こういう認識と態度で、「憎悪の連鎖を断ち切るために」とか言っている。言ってることとやってることが全然逆。
そういう欺瞞的態度が、「愚民の憎悪」を活性化させるのだ。
●「ハシズム」というレッテル貼りの虚しさ
今回の山口二郎さんの"自爆"が、おいらをはじめ「愚民の憎悪」によって、喝采された理由は、橋下徹を独裁者よばわりし、あまつさえ、ファシズムをひねった「ハシズム」なる野暮な言葉でレッテル貼りをしたことである。これで、簡単に橋下徹が市長選で落選するとでも考えたのだろうか?
さらに、山口二郎教授さまは、橋下候補を「ちんぴらにいちゃん」よばわりさえしていた。『こんな「ちんぴらにいちゃん」に投票する有権者は、憎悪に燃えた愚民に違いない』と、山口二郎教授さまら反「ハシズム」の諸先生方の心には映っているのだろう。
でも、橋下徹さんを憎悪しているのは、反「ハシズム」の諸先生方ではないのか。
こだまする「憎悪」。
■極めて保守的な、山口二郎さん。
別においらは山口二郎教授さまを批難しているわけではない。おいらが、ルーチンでやることのひとつが、「嫌悪」する人を認識したら、その人の言動リストと自分の言動リストを照合することである。 あったさ。 維新=ちんぴらにいちゃん。
山口二郎教授さまは維新の会代表の橋下徹さんを「ちんぴらにいちゃん」と罵倒した (Google)。
おいらは、ずーっとしてるよ。これらは、薩長へのルサンチマンに基づくものだ。
・伊藤博文ら薩長のチンピラにいちゃんたち
・ちんぴら薩長の クロダキヨタカ クン(酒乱で細君を惨殺したとうわさされる)
・ずーっとちんぴら度がまして、伊藤博文、山縣有朋。
一方、山口二郎教授さまは、お上品で、秀才とされてきたので、『山口二郎教授さまら食税階層が「 厚 抗顔座食」し、既得権を保持しているのはけしからん!』と息巻き、下剋上を志向する維新勢力を、「ちんぴらにいちゃん」と罵倒し、嫌悪している。これ、維新、革命への嫌悪、反革命思想。お上品な既得権益者にふさわしい振る舞いではある。保守の定義。極めて保守的な、山口二郎さん。
■ 「ファシズム」つれづれ1.
保守主義の立場と異なり、ファシズムは、いわゆる「開かれたエリートの理論」をとっていて、既成の上層階級や支配階級に属する人々を即エリートとはみなさいということである。そして、もうひとつは、このことと密接に関連していることだが、エリートたる資格は、家柄や生まれや所属によるものではなくて、その人の「能力」やなしとげた「業績」によって与えられるべきものと考えることである。 (山口定、『ファシズム』 [Amazon])
今回の山口二郎教授さま事件がこれだけ炎上したのは、彼の「能力」が露わになったからだ。山口二郎教授さまは東大法学部の秀才で学部出で助手、その後ずっと「有名」大教官。これは、業界人としての「家柄や生まれ」に基づくものと、僻み根性からみれば、判断できる。そんな、制度上の「家柄や生まれ」に基づくけど元来秀才であると、知る人には知られていた(らしい)、山口二郎教授さまを、テレビのあの場面だけで見た「愚民」からは、無能に見えた。なんであんな無能な人間が学者として税金で養われているのだ!、あまつさえ、反「ハシズム」とか疑似学問を振りかざし偉そうにしている!という憤りである。「愚民の憎悪」に火をつけたのは、山口二郎教授さま自身である。
■ 「ファシズム」つれづれ 2. 自分を見つけたよ。ただし、下線のみ。おいらは、残念なことに、ファシストになるほど偉くない。
自分には豊かな才能があると信じているのに世に出る機会を与えられなかった文士、芸術家、技師、建築家などが、その憤懣のはけ口をファシズム運動に見出し、そのなかで重要な役割を果たすことになる例も多く見られる。画家と建築家を目指しながら、ウイーンの美術学校の入試に二度も失敗し、その挫折感があとまで行動を支配したヒトラーは・・・・(略) (山口定、『ファシズム』)
ファシズムの指導者たちは、性格類型論的にいって、いわゆる「限界的人間(マージナルマン)」、わかり易くいえば「才能があるのに世に受け容れられず」、そのことで胸中に深いルサンチマン(憤懣の情)をためこんだ「非社交的な個人主義者」であることが多かった。 (山口定、『ファシズム』)