いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第461週

2023年09月16日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第461週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の尾長

カナヘビ?

■ 今週のアリストクラシーとメリトクラシー

 
親の力で人生が決まる       自分の能力で人生が決まる

内閣改造で、加藤鮎子[wiki]がこども政策担当大臣となった。ところで、8月に松川るい[wiki]参議院議員がパリ出張で、遊んでいたんだろうと炎上し、雲隠れした時、実は、次の入閣候補者であったとうわさされた。加藤鮎子は東大出の外交官であった加藤紘一の娘。加藤紘一といえば、その昔はわれらがネトウヨの不倶戴天の敵である。一方、松川るいは自分が東大出の外交官だった。

今回、大臣となった加藤鮎子は当選3回である。当選7回でも大臣待ちの国会議員がたくさんいるそうだ。そういう中で、当選3回で加藤鮎子が大臣になれたのは、世襲議員であるからであり、実家が「名家」であるからに他ならない。今回の組閣で初入閣は3人は全員世襲議員とのこと。自民党の政府のつくり方は露骨に門閥主義である。

さて、問題はここからである。松川るいのメリトクラシー:自分の能力で人生が決まるにおいて、こういうことをしてしまうことが能力があるといえるのか?が問題だ。

いずれにせよ、自分の「能力」で人生が決まることに変わりはない。

■ 今週の「あなたたちのために」

最近にいたるまで、『三田評論』のある待合室に通っている。そこでみた『三田評論』で、高校生向けの論文コンクールがあることを知った。お題はいくつかあるのだが、そのひとつが、「福沢諭吉が今の日本を見たら」。ネットにある。もし、諭吉が今の日本に降臨したら、やはり、<諭吉歓迎会議の幹部さま>は下記の方々に違いない。なぜなら、現世で権勢を奮っているからである。

 そのうち
左から加藤鮎子、福田達夫、中曽根康隆、石破茂、奥野信亮     岸田翔太郎

KO出の政治家はたくさんいるだろうが、上記の方々は、世襲議員であり、かつ、その初代や先代が東大出身で官僚を経て政治家、場合によっては首相になった方々である。つまり、初代や先代と同じ教育や経歴を辿ったわけではないが、その職業だけは襲うである。そして、なぜかしら彼らはKOに行くのだ。KOといえば、福沢諭吉。諭吉といえば、「門閥制度は親の敵で御座る」。ここで、門閥を辞書で引くと、高い格があると昔から世間で認める家柄、いえがらが良い家。上記の方々、首相や有力大臣輩出の家がら。諭吉が親の敵といった門閥制度の賜物で政治家になったに違いない。例えば、上の高校生論文コンクールで入賞した論文の冒頭に書いてある:

私達は「門閥制度は親の敵[かたき]で御座る」と言い放った青年一人の青年の悔しさを忘れてはならない。引用元

そこで、<諭吉歓迎会議の幹部さま>が迎える中、諭吉が降臨したら?

上述の通り、今回の組閣で初入閣は3人は全員世襲議員であり、露骨に門閥主義である政府を横に、諭吉降臨。「福沢諭吉が今の日本を見たら」。

実は、問題ない。なぜなら、諭吉の文章をよく読むと、諭吉は「私のために門閥制度は親の敵で御座る」といっているのだ [1]。私のために、といっているのだ。つまりは、個人的体験に基づく、個人的感想なのだ。もし、諭吉が上記諭吉歓迎会議の幹部さまに対し、「門閥制度は親の敵で御座る」と言い放ったとしたら、上記<諭吉歓迎会議の幹部さま>たちは、「それってあなたの感想ですよね?」と応じればいいのだ。

もちろん、諭吉は、上記<諭吉歓迎会議の幹部さま>たちに対し、「あなたたちのために門閥制度は親の形見」というだろう。

[1] 全文

如斯こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、むなしく不平をんで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児しょせいじ行末ゆくすえはかり、これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度をいきどおると共に、亡父ぼうふの心事を察してひとり泣くことがあります。私のめに門閥制度は親のかたきで御座る。(引用元

■ 今週の購書

村松剛『アメリカの憂鬱』 1967年刊行

Amazonでは、4,000円ほどするが、日本の古本屋で、400円で買った。1967年刊行。この本は、当時立教大学助教授だった村松剛が、1965年9月ー1966年6月まで、半年の滞米、その後、スペイン、フランスとまわった滞在、旅行記録。スポンサーは、フォード財団とロックフェラー3世財団の基金。立教大学を約1年、留守にしたことにある。サバティカルだ。なお、サバティカルは本来、キリスト教の牧師が7年に1度1年会遠地で過ごす制度に由来する。現在の日本の大学では制度化していないが、北米ではある。立教大学はキリスト教系大学だから、サバティカル制度的なものがあったのか?

年譜にはこうある;

昭和40年10月 ニューヨーク・ジャパン・ソサイアティーの招きでアメリカ,ヨーロッパに赴く。アメリカではハーヴァード大学研究生となる。(ソース

 村松剛は米国においてはボストンに滞在(上記の「アメリカではハーヴァード大学研究生となる」)、週に1度、飛行機でニューヨークに通った。

そのニューヨークでは、1965年北アメリカ大停電 [wiki]に遭遇する。ニューヨーカーは冷静で、その非常時に、案外、うきうきしていると見取っている。

▼ まさに米国繁栄の頂点、1966年

今からみると、米国の衰退はベトナム戦争から始まる。テト攻勢でベトナム戦争が泥沼化すのが1968年1月以降だ。だから、村松が米国にいた時は、米国人は、まさかこのあと5.8万人が戦死し、事実上、敗退するとは思ってもいなかった。むしろ、逆の心配をしていたハーバード大学教授を村松は紹介している。そのハーバード大学教授は「道徳的退廃」を心配している。ここで興味深いのは、「道徳的退廃」とは米国人が麻薬に溺れるとか社会規律が乱れるとかそういうことではなく、むしろ逆で、強すぎる米国が自分の政治的価値観を外国に武力を以て押し付け、しかも勝利するので、敗戦国に非寛容で独善的になることである。村松はこれをやられたのが敗戦国日本であったという認識をもち、このハーバード大学教授を村松は紹介している。

▼ 米国の生活

村松剛は米国の中産階級の生活を全く評価していない。閉鎖的で退屈、軍隊のように画一的で質素で堅実であるとの認識。家は大きく日本よりずっといいが、殺風景。「日本人はアンリカ人にくらべて貧乏だけれど、日本の庶民の方が、たぶん生活を多彩にする方法を、はるかによく知っている。」と村松は云う。

特に、食生活については全くダメだと書いている。

食べ物に関しては、殆んどノイローゼ的状態になった。
はじめの一か月くらいは、それでももの珍しさにまぎれて、味の方はたいして気にもならなかった。しかし生活が堕ちついてくるにつれて、そのまずさー というより味のなさ ーが、どうにも我慢できないものに見えはじめる。まずさの第一の原因は、インスタント食品と、大量生産の冷凍品が大部分を占めることに由来するのだろう。

 ぼくは日本の食物には未練のない方で、外国で米の飯やお茶がほしいなどと思ったことは、あまりない。しかしアメリカばかりは特別だった。

 アメリカ人の貧困をきわめた食生活を見て、ぼくは日本の将来が心配になった。アメリカの酒がまずいのは、禁酒法いらいだといわれ、アングロ・サクソンはもともと味覚が鈍感なのだともいう。そういうことはるにしても、根本的な問題はやはり、工業化、大衆社会化がもたらす食生活の変革である。

1965年のボストンの食料品事情を想像できない。そんなにひどかったのだろうか?あるいは、村松の舌が相当肥えていたのだっろうか?「ぼくは日本の食物には未練のない方」といってるのだから、よほどのことだったのだろう。加工していない野菜などや普通の生の肉は売ってなかったのだろうか?売ってるものすべてが冷凍食品だと思えないのだが。ちょっと、理解できない。

▼ 山崎正和、ユダヤ人、真珠湾

そのニューヨークで、ぼくはある歴史学者の夫人から
「自分たちは真珠湾を忘れない。だから私は、日本人というものをいまでも信用しないのだ」
といわれたことがある。  村松剛『アメリカの憂鬱』、第5章 アメリカと現代世界

この席には山崎正和も一緒だったという。

 村松が報告しているのだが、この頃、米国の文学界で活躍しているのはユダヤ人ばかりであったとのこと。その背景は主流アメリカ人(WASP)は、反知性主義的で、文学、哲学、芸術などに関心をもたないと云っている。なお、別章、ニューヨークの同性愛事情を報告。ある演劇関係者によると、演劇界では同性愛者が多いと。ある演劇関係者とは山崎であり、山崎の自伝にある、握手の仕方で同性愛者であるかわかる(=相手が自分が同性愛者であると暗に伝えてくるとおいらは解釈した)、手を強く握らないというあのことだ。

▼ 子供と人種問題

村松剛『アメリカの憂鬱』のヤマは第2章 アメリカとアメリカ人 第5項 子供と人種問題だ。

村松は家族で行った。子供を公立小学校へ入れた。トラブル。その頃、他の日本人の子供が学校で人種問題でいじめられ委縮していることを村松は知った。そこで自分の子供たちには、正々堂々と生きよいう。おそらく、日本人にしては委縮していない=彼ら見て生意気に受け取られたのだろう。暴力沙汰を誣告される。学校から「お宅の子供がガラスの破片で友だちを殺そうとした」と連絡。村松は滞米15年の親戚の女性を伴い、小学校に行き、教頭と対決。結局、小学校をやめさせる。しかし、噂を聞いて、隣町の教育委員会から連絡があり、ケネディが通った小学校に通う。この体験で村松は両極の二つのタイプのアメリカ人にあったと書いている。

▼ 中米紀行、あるいは、スペインの前に?

実は、村松剛『アメリカの憂鬱』の半分は中米紀行である。キューバを挟んで、東西。

まずは、ドミニカ。アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965年-1966年) [wiki]の頃。

そして、グァテマラ、マヤ文明遺跡訪問

米国の後、スペインに行っているはずだが、スペインについての話はない。

▼ ド・ゴールを見に

村松剛『アメリカの憂鬱』のヤマは実はこっちかもしれない。

村松は、ヴェルダン50周年記念式のド・ゴールの演説を聞きに行く。

見わたすかぎり林立する何万、何十万の十字架の列をまえにすると、言い知れない徒労感におそわれる。同じヨーロッパの二つの国が、何という無駄な、愚かな、むなしい戦いをしたものか・・・。同じ日のフランスの新聞は、ここには無数の、未来のアインシュタインたちが、パストゥールたちがクロオデルやブレヒトが眠っている、と書いていたが、当事者になれば、たしかに思いはいっそう深刻だろう。 村松剛『アメリカの憂鬱』

 

 



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