愚ブログは、奇を衒(てら)ったことを書くブログである。 衒奇(げんき)ブログ。 ikagenki.
現ネット世界では言及されない事について、つまりは非常に些細なこと( an extremely trivial topic)について書こう。
利点は、些細な唯一性である。
■ はじまり、はじまり;
お題は、福田恒存の「支那通」力、あるいは、「文革劇」に参加していたこと
ネットで知ったさ。福田恒存は文革に最初から絡んでいたのだ! 武 継平(九州大学の教官)が紀要、「郭沫若の自己批判の懸案」にかいてあったことをネタに説明する;
文化大革命が劇的に顕在化(天安門広場紅衛兵百万人集会)する半年ほど前、その序として郭沫若の劇的自己批判というのがある。
文革のプレリュードは、郭沫若自己批判である;
愚ブログでは、愚記事(「みんなありがとう」 ぼくは..。日本人最初?の紅衛兵、最後は孔子さまに到る、あるいは公望の成果 )の文革年表の最初の事件として出てくる。1966年4月14日、郭沫若自己批判。
郭沫若というのは中国共産党、特に周恩来お墨付きの知識人。周恩来は魯迅の死後魯迅の後継知識人としての役割を郭沫若に割り当てた。
文革(中華人民共和国プロレタリア文化大革命)。主導者の毛沢東の標的は有名知識人たちである。
郭沫若の自己批判が劇的に公表される経緯はかくのごとき;
1966年1月27日 郭沫若、科学院院長など要職の辞職願提出
1966年2月 膨真ら文革五人組が郭沫若辞表を毛沢東に見せる。
1966年4月14日 全人代常務委員会30回会議で、郭沫若の即席発言による自己批判。
この発言は康生により毛沢東に伝えられる。
(康生: インテリジェンス、謀略担当の側近。参考文献= 数十年にわたって毛沢東のために「汚れ仕事」を務めた、中国共産主義の暗黒面を象徴する「悪の天才」康生(1898-1975), Amazon)
1966年4月28日 毛沢東の指示で4/14の郭沫若自己批判発言を文章にしたものが新聞『光明日報』に載る。郭沫若本人は知らないし、関与していない。全人代常務委員会議での発言というものは会議参加者とその議事録を読むことができる党上層部だけが知ることができるものとのこと。
1966年5月5日 上記郭沫若自己批判発言が『人民日報』に載る。中国全土及び世界の中国ウォッチャーに周知となる。
郭沫若の自己批判の劇的なる文章は下記;
数十年来、ずっとペンを持ってものを書き、そしていくらか翻訳もしました。字数から言えば、恐らく数百万字があったかもしれません。しかし、今日の基準を持って判断するなら、以前書いたものは、厳格にいうなら、全て焼き尽くすべきで、まったく価値がありません……。わたくしは今労農兵に学ぶべきです。そし て彼らを師として仰がなければなりません。わたくしはすでに七十いくつになりましたが、志なら大きなものがあります。つまり全身泥まみれ、油汚れまみれ、そして血まみれになりたい。もしもアメリカ帝国主義が攻撃してくるなら、彼らに向かって手榴弾でも投げたいものです……。
これにわずか四日後に応答したのが、我らが倭国のつすくずん・福田恒存である。
それにしても郭氏の言葉はまことに激烈凄惨なもので、拷問の鬼と思はれていたかつての日本の特高も、共産主義転向者からこれほど感激的な誓約書を手に入れるとは出来なかったであろう
福田恒存は、郭沫若自己批判文章、『光明日報』掲載のわずか4日後に朝日新聞に記事「郭沫若氏の心中をおもう ― 真実の言なのか、絶望の声なのか」を掲載する。
『人民日報』ではなく、『光明日報』の記事を受けて、福田恒存が応答したのだ。1966年当時、インターネットはもちろんのこと、ファクシミリだって使用できたかわからない。そもそも、新聞『光明日報』をどうやって入手したのだろうか?恐らく、香港や台湾には大陸中国の情報を常時集め解析する機関(公然の)があるので、そこから配給されたであると考えるのが妥当であろう。それにしても、わずか4日後に応答しているのである。
どうして、『人民日報』というメジャーな新聞ではなく、『光明日報』の記事を受けて、ただちに、福田恒存が応答できたのか、今のおいらには不明。
ただし、福田恒存は、相当、支那をウヲッチしていたことははかりうる。
(関連愚記事;
なお、郭沫若の自己批判はすぐに日本にも伝えられた。これに対し日本人知識人も反応している。例えば、福田恒存の「郭沫若の心中を想ふ」(朝日新聞、昭和四一年五月二日) 「それにしても郭氏の言葉はまことに激烈凄惨なもので、拷問の鬼と思はれていたかつての日本の特高も、共産主義転向者からこれほど感激的な誓約書を手に入れる個とは出来なかったであろう」(かなづかひは勝手に変更)と書いている。だから、確かに郭沫若 [かくまつじゃく]が率先して自己批判しというのは日本では公知情報であったのだ。)
そして、福田恒存は言っている;
が、さういう時代になっても、私は見ずして中國がわかる。大部分の「市民」は相変らず昔のままであろう。壁新聞を見ていても、中國は理解できないのである。 (問い質しき事ども、初出、1981年、中央公論)
この大嘘つき!福田恒存。 「私は見ずして中國がわかる」と大言しながら、実は、『光明日報』をリアルタイムで見ていたのだ!
支那情報は欠かさなかったのだ! やっぱり、ウヨはみんな、sino-philiaなんだよ。
ともにsino-philiaの邪道の道を歩もうではないか!
なお、福田恒存の朝日新聞に記事「郭沫若氏の心中をおもう ― 真実の言なのか、絶望の声なのか」の郭沫若の自己批判の文章の訳者が未だに不明である。もしかして、福田恒存の訳ではないのではないだろうか?
福田恒存の「支那通」力!
そして、郭沫若自身、この福田恒存の郭沫若批判に応答しているのだ。
武 継平、「郭沫若の自己批判の懸念」
郭沫若が批判した日本人は、発言の内容から見て、その文章が前記福田恒存の「郭沫若の心中をおもう -真実の言なのか、絶望の声なのか」と見てほぼ間違いなかろう。と武 継平によって書かれている。
つまり、福田恒存は、文革劇に参加しているのだ。なぜなら、福田恒存の朝日新聞の記事の情報は、康生-毛沢東によって管理され、郭沫若にもたらされたに違いないからである。康生-毛沢東によって福田恒存の記事「郭沫若氏の心中をおもう ― 真実の言なのか、絶望の声なのか」が、郭沫若にもたらせたのだろう。そして、康生-毛沢東は、郭沫若の応答を試金石として、虎視眈々と見守り、何より、そういう状況をわかっている郭沫若は、思いっきり自己保身に走ったのだ。 それが、郭沫若による福田恒存への反論でである。阿Q正伝の実践に他ならない。
おいらが、妄想するに、毛沢東は福田恒存を知っていたのだと思う。
■ 文革の当初から絡んでいた福田恒存は、文革劇の結末も見届ける;
劇的 (芝居くさい)!、あまりに劇的 (芝居くさい)な!
裁かれる江青女史の言葉 ―
「私に過ちはない。もしありとすれば、ただ一つ、それは権力闘争において、おまえたちに破れたことだ」。
さすがに元女優、恐らく一世一代の名台詞であろう。
福田恒存、『問いただしき事ども』(1981年、新潮社; 初出:中央公論 昭和五十六年 [1981年] 三月号) (かなづかいなどは勝手に今風に変更;訳文も勝手に変えた)
まとめ; 真実は劇作家も感嘆するほど、奇なり; or 、ぬんげん・この劇的なるもの;;
只の劇作家 文革劇に即興参加 恒存の参加も予期していたシナリオを作る。
助演男優 主演男優
・忘れておりました。 当の郭沫若 老師の御尊顔はこちら。