いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

堀田善衛『インドで考えたこと』

2004年08月22日 12時54分52秒 | インド
いか@ 20年ぶりに『インドで考えたこと』を読む。 

仙台のブックオフで300円で買った『インドで考えたこと』と、伊達政宗家臣団トランプ、。伊達之都

【『インドで考えたこと』堀田善衛を考える】
この本、初版が1957年であり現在でも刊行されている。おいらが古本屋・ブックオフで買ったのは1994年発行。実に第54版である。岩波新書である。こんな長きにわたって刊行されつづけてきている。今回読んでみて、20年前読んだはずなのに、記憶に残っている部分はなかった。まずこの本のコンセプトを勘違いしていた。つまり、堀田はアジア作家会議なるものの出席のため突然インドに行くことになるのである。別にインドで何かを見て取ってやろう、というものではない。そして、インドで考えるのであって、考える対象はインドだけではない。さらに当時の国内も含め知的環境をいまの人は理解できないはずと、おいらは思う。つまり、当時、講和後5年の昭和30年前半、《いんてり》(←侮蔑語です)世間ではそのうち日本は資本主義なんかやめて社会主義になるという暗黙の了解、いやその了解に異議を唱えるものは追放される雰囲気であった。そんな雰囲気でこの本の中でも堀田が左翼《いんてり》世間で生きるためか、しょっぱなからレーニンの引用である。当時、《いんてり》は自分が左翼であるかを匂わせねばならなかった。そういう意識のネガが、日本の規定において日本は資本主義とはいわず、工業国と言い換えた上、さらに「客観的には私は資本主義の手先ということになる」と大仰に書いている。

当時のアジアの国際的雰囲気はヨーロッパ・帝国主義からの脱出という成果をふまえて、社会主義志向が支配的であった。ここで社会主義とは反帝国主義であり、帝国主義とは資本主義と戦争、植民地支配ということである。だから、資本主義とは当時悪に近い概念であった。インド・ネルーと中国・周の平和五原則、非同盟が米ソ対立の中、ある種のリアリティを持った時代であった。一方、日本はまだ高度成長期前夜であり、資本主義の弊害ばかりが社会問題となっていた。堀田は資本主義問題は<>なかった。が、日本の国際政治での挙動は<>。そのポイントは現在でも重要である。つまり、堀田の言うところの「悪擦れした日本人」。

おいら流に言うと;
::近代での日本の分裂した挙動。ヨーロッパの文明を摂取して近代国家を打ちたて、ロシアを破りアジア人に希望を与えるも、英国・最悪の殖民国家と同盟しアジア支配に追随するする。やがて、英米に反逆し大東亜解放の理念を掲げるが敗北。そして米国の保護領となり米国の事実上の属領となり現在に至る。::という近代日本の大問題。

この問題に対し、インドは反帝国主義、反植民地外交を行った。すなわち、サンフランシスコ講和条約の時、米国は沖縄を日本から分離し国連委任統治領にするつもりであった。沖縄のグアム化である。これに対しインドは反対し、沖縄の日本への。全面復帰を主張。

米国は国連委任統治領は放棄したが、全面返還を講和条約に含めず、それがインドをして講和会議に参加することを拒否せしめた。現在に至るまで解決されていない沖縄問題である。堀田がこの沖縄問題を「現代日本の構造が成立するについての、もっとも重要なキイ・ポイント」と記し、そのことを忘れていたことを「羞しかった」と言っている。そんな堀田も当時現実をきちんと見ていたかは疑問である。沖縄-アジア最後の植民地

【堀田善衛が『インドで考え』なかったこと】
例えば、堀田は;

なるほど、英国は去った。都市で英国人を見ることは、ひょっとして東京でアメリカ人を見るよりも少ないかもしれない。

と述べている。インド人も、びっくりである。いか@も驚愕である。この文で堀田は英国のインド支配は終わった。旧支配者の残党はいるかもしれないが、それは少ない、と言いたいらしい。そして、その少なさの比喩に「東京のアメリカ人」を使っている。これはあきらかにおかしいし、堀田は重大な事実誤認、いや現実直視を忌避している。なぜならこの本の出版の1957年、昭和32年だと東京渋谷にはワシントンハイツが広がっていたし、横田、福生など駐留米軍人とその家族がゴマンといたのである。ことばづらでいうなら、米軍人は東京の市街を歩いていたわけではないかもしれない。しかし、東京でアメリカ人を見る、すなわち勝者、為政者そして講和後は保護者として駐屯していた米軍を<見る>ことをしなかったのは堀田ではないのか?堀田はインドで言語の多様性、貧しいことなどは<考え>たが、インドは中立政策を行っている独立主権国家であるのに対し、日本は主権である交戦権を放棄している非主権国家であり、あまつさえ治安維持に出動できる外国軍をその首都に駐屯させているprotectrate/保護国であることは考えていない。その当時は旧安保条約のころで、条約上米軍が日本の治安維持に出動できた。そういうとんでもない日米関係には特に言及していない。ばかりか、日本はいっぱしの国であるかのような前提でものを言っている。

【まとめ】
そんな堀田は「戦争責任者が首相になる」と岸信介に嫌味をいって岩波文化人のアリバイをつくる一方、中国共産党の革命路線の方向を正しいと評価したうえで、その正反対として日本に言及、戦争を「破局的、自殺的、ヤケクソのかたちで爆発した日本民族のエネルギー」と幼稚な罵倒語でかたずける。が、最後に「それ(日本民族のエネルギー)をもっと正当に評価する試みが歴史家の側にあってほしいと思う。アジア諸民族の抵抗運動、解放運動」との近接した対比の上で。」と現在の歴史修正派みたいなことも言っている。まさに近代日本の大問題の一端ではある。




むつひとさんが見た風景

2004年08月21日 08時54分28秒 | 仙台・竹雀・政宗
いか@ はインドを少し忘れて仙台参り。

誰も知らない松島

写真は松島の風景。奥松島の富山観音というところから。さて、海の日というがある。7月19日。これは。むつひとさんこと明治天皇が奥州行幸から艦船で東京に戻ってきた日に由来する

この奥州行幸は戊辰戦争の敗者への新統治者の視察にほかならない。ちなみの奥州勢は輪王寺の宮を「天皇」として担ぎ、さちの宮・のちのむつひと帝を担ぐ薩長勢に対抗。明治期には負け組、旧朝敵の刻印を押される。

その行幸のひとこまにこの奥松島・富山観音ちかくの寺がある。現在でも交通が不便であり、車からおりたあと結構歩く。が見晴らしがびっくりするほどすばらしい。明治初期、戊辰戦争後わずか12年後、だれがこの地を行幸の地に選定したのだろう?

とまれ、今ではだれでも入れて、絶景を見ることができる。むつひとさんの肖像も見ることができる。


覗写・大崎八幡宮

2004年08月20日 23時51分46秒 | 仙台・竹雀・政宗
いか@ インドを仙台で考える。

仙台は桃山建築が多い。その内のひとつ、大崎八幡宮、国宝。現在改修中。極彩色の桃山建築の全貌は見ることはできなかったが、工事用塀の上から少し見えた。

他に仙台(松島を含む)の桃山建築は、瑞巌寺、瑞鳳殿などがある。

いか@ の仙台参り:

19日:白石城、仙台市内散歩:仙台駅⇒クリス商店街⇒一番町商店街⇒広瀬通⇒中の瀬橋⇒仙台二高の裏⇒澱橋⇒医学部前⇒バスで仙台駅

20日:仙台東照宮⇒松島:瑞巌寺⇒奥松島:富山観音⇒大崎八幡⇒龍雲院⇒一番町⇒離仙


パソコンこわれた。

2004年08月19日 01時09分05秒 | インド

いか@ は仙台でインドを考える。

パソコンこわれた 文字入力異常。 。。。。。。というふうに まる が勝手に入力される 

今日は仙台にいきます。 政宗とインドはつながらなかった。

北山五山がインド=天竺と関係ある。



具象コーラムなるものがあって、和名独眼龍政宗。ってのがあった。

こわれた: 

気を抜くとこのようなん。y。う。う。。r。よく。になる、よくわからないが、


インドとジンギスカン

2004年08月18日 07時12分04秒 | インド
いか@ もインドを考える! 今日は【羊をめぐる暴食】のココロだ~!

 【ジンギスカン】いきなり画像がインドで撮ったものでない。ネタ切れか?(爆)日曜から3日連夜「ジンギスカン」を食べた。写真はラム肉と市販のジンギスカンのたれである。このジンギスカンのたれは北海道産の「ベル」ジンギスカンのたれ。これらが関東で手に入るのはうれしいかぎりである。若い頃、【内地】にやってきてアパートの大家に「羊の肉は食糧難時代にだけ食べたね~」なんていわれた。日本人でもジンギスカンを食べたことのない人がいるのでないかな?そもそも羊が内地にあんまりいないものね。

 【インドで羊肉】インドで羊肉をたくさん食べた。とくにムガル料理では羊肉を多用する。骨付き肉の料理も食べた。食べにくかったけど。ムガル帝国は英国のインド植民地・インド帝国の前の国であり、

ムガル は モンゴル の訛りである。

つまりムガル帝国はモンゴル帝国の末裔を自称してその権威をはったのでした。だから、ムガル帝の皇帝たちはモンゴル帝国のジンギスカンの子孫を自称していた。おいらがインド、特にデリーに行って気づいたことはインドのイスラム文明の側面が大きいということである。バザール、料理、イスラム寺院などとして顕著であった。もちろんあのタージマハルもイスラム文化の華である。

【肉の形態】日本人は羊にかかわらず肉は薄切りにして食べる。一方、インド、そして欧米でも、塊として食べる。インドで薄切り肉は見なかった。おいらは薄切り肉が好きだ。ジンギスカンのこの薄円状のラムを焼いて箸でたべるのがいとうれし。そんな北海道のジンギスカンは当初羊毛用のための羊を死ぬ前に食べるため、なかば人為的に、開発された料理らしい。羊は10歳を越え、肉が硬いのである。もちろん近代日本での話である。でその羊毛は兵隊さんの防寒具用であり、その防寒具は日露戦争・シベリア出兵用であったのだろう。今では子羊の肉、ラムを食べている。なお、ラム・マトン(成体の肉)はほぼ100%輸入である。

【あやかり】ムガル朝の皇帝がほんとにチンギスハーンの子孫かはわからない、一方、北海道のジンギスカン料理がチンギスハーンとなんの関係もないことはあきらか。ただし、両者ともイメージをチンギスハーンにつなげようとしたことは紛れもない事実である。チンギスハーンはインド・日本であやかられるのであった。

おしまい。

恋愛イデオロギー:インドと日本

2004年08月17日 00時17分56秒 | インド
いか@ もインドを考える。今日は、【ロマンティック・ラブ・イデオロギー】のココロだ~!


 【インドの結婚事情】おいらが会ったインド人青年、中産階級&地方出身&職のためデリー在住&結婚したら親を呼び寄せ嫁と同居で大家族、は自分のことも含めインド人のほとんどの結婚は親が決めると言っていた(インタビューサンプル数5人位)。独身女性の結婚観は前述。つまりインドでは「恋愛」結婚が普通ではないので、恋愛脅迫にならなくて済む。これが日本と違う点。日本なら「彼女いない歴何年」とか世間さまからaccount(説明)しなければならないので笑える。恋愛不遂行のaccountability(説明責任)を常に求められているのである(笑)。結婚するしないのかかわらず、恋愛することが暗に要請されている。まあ、要請というより、恋愛してことは生き生きと生活していることの一番の表明であると受け取られ、他者からも一目置かれる。見合い結婚より恋愛結婚の方がいいという価値観は暗暗裏に共有されている。こういう日本の文化社会状況を、ロマンティック・ラブ・イデオロギーが支配する社会と言ってよい。インドはそうではない。


 【愛はテロリズム-ロマンティック・ラブの終焉-】で、左記の本を古本屋---アマゾンの古本屋、まず新刊書を検索して古本の在庫があればネットで注文できる。ちなみに在庫はアマゾンにあるのではなく、アマゾンと契約している中小のネット古書店が持っていて注文者に直接送付してくれる---かった。日曜にネット発注してクロネコメール便で翌日月曜に手元へ。主旨は、米国で盛んなロマンティック・ラブというものは非日常的体験に基づくものであり、実際の夫婦生活では日常生活を半世紀続けなければならず、非日常的体験に基づく関係はとうてい日常生活を長期間維持することはできない、というものである。だから米国では離婚率が高いのである、としている。これは何十年か遅れて日本で現象している。これに対し、インドは半世紀前の日本と同様、家族・イエの存続を第一目的であるようだ。もちろん、役人以外、年金制度はなく家族で世代間相互扶助しなければならない。これは、現在の日本人の感覚では我慢できないだろうが、存続可能性という点では年金制度より格段に優れている。日本の年金制度が行き詰まるのは明白である。

 【matrimonials】インド人の親の子供の結婚相手の探す手段にmatrimonialsという新聞広告がある。毎週日曜日新聞に挟まっている。8ページくらいの分量。子供の属性が書いてあり、相手を募集している。こんなんです:
WANTED beautiful slim qualified girl for B.Tech Computer manglik Mittal 26/170/65 kg born handsome smart only son working in HCL Tech, Noida. At present in Japan. Father Doctor.

今日本にいるコンピュータエンジニアに嫁っこを探す、お医者のパパなのです。