いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

インド・天地総子!

2004年08月16日 07時34分37秒 | インド
いか@ インドを思い出す。 インドポップスの女性ボーカルは「天地総子」声。


インドポップス、MTVでがんがんやっている音楽の女性ボーカルはあの独特の甲高い声である。この声をどう表現していいか難しいのだけど、日本の歌手でこういう声の女性がいたなとわかっていた。特にコマーシャルソングなどで活躍している人。でも名前が思い出せなかった。最近やっと思い出した。

天地総子

知ってます? で、blogの検索でひいてみた。まさかないだろうとおもったら、一件あった。

天地総子

後註:リンク拒否でした。↑

以前レゲイにはまったが今はインドポップスが好きです。毎日インドでMTVをみてCDも買ってきたんだけど、そう多くない。今後、日本で調達しないといけません。

インドとギリシャ

2004年08月15日 00時06分36秒 | インド
いか@ インドとギリシャで強引にネタつくり。

【ギリシャとインド】オリンピックでギリシャが話題の中心。インドとギリシャの接点と言えばガンダーラ文化。現在ではパキスタン領ではあるが、1-5世紀に栄えた仏教美術。仏さまがギリシャ人っぽいのである。この写真はデリーのインド国立博物館の展示像。インド国立博物館

 造形美術だけが伝来して、スポーツ・オリンピックは来なかったのかな?というのは愚問だよね。そもそも昨日今日のオリンピック中継で「オリンピック発祥の地」と何度聞いただろう。確かに近代において国際スポーツ競技会をやろうとした人は観念としての古代ギリシャの<オリンピック>が念頭にあったかもしれないが、それは近代から古代を<スポーツ競技会>を想起しているのであって、オリンピックがギリシャで発祥して現在まで続いているわけでないことは言うまでもない。

 これは、仏教がインドで発祥して現在も世界で信じられていることとは違う。仏教は絶え間なく、世界を動きながらも誰かによって継承されつづけられているのだから。

 オリンピックと並んでギリシャが発祥とされるのは「哲学」と「民主制」である。それゆえギリシャは現在でもヨーロッパ社会で名誉ある地位を占めている。2000年もまえの成果物で今も喰っているのである。ところで、多くの古代ギリシャの著作は、それこそアリストテレスをはじめ、古代ギリシャ語からローマ帝国のラテン語に直接翻訳されたわけではない。古代ローマ人は自分達では直接ギリシャ語を翻訳できず、まずはアラビア語からラテン語に翻訳したのである。つまり、古代ギリシャ文明は現在のヨーロッパ文明の正統な祖先でありながら、実際はヨーロッパ人はアラビア経由で「密輸」し、それを事実上隠蔽している。

 とまれインドの話ではなくなってしまったが、開会式の入場行進では日本はインドの次だったんですね。そして米国の前。もともと古代ギリシャ語に j ジェイはないんです。インドは ι:イオタ ですね。米国はUSAの U が υ:ウプシロン なんでしょう。現代ギリシャ語には j 相当の文字が加わったのでしょう。

態度のでかい「毛唐」さん

2004年08月14日 06時37分46秒 | インド
いか@: インドを思い出す。

ボーパールエクスプレスでの毛唐さん。別にこういう格好はしてもいいんだけど、インド人はだれもしない。

この毛唐さん、車内サービスをすべて断り、ひたすら寝ていた。アグラ、おいらと一緒、でおりた。アグラ観光と思われる。

別の毛唐さんは、行きも帰りも座席が近かったが、隣が空いている席を血眼になってさがしては渡り歩いていた。全席指定なのに、最初はおいらの席にいた。理由は両脇が空いていたから。どうやら、とにかくひとりになりたいらしい。まあ、変な奴だった。

PS blog.goo.ne.jp の検索で「毛唐」を引くとあった。結構使っているひとがいるんだ。 JG

3P禁止!インド・アクバル帝寝台

2004年08月13日 08時47分31秒 | インド
いか@ 瑞穂の国でインドを思い出す。

写真はファテープルシークリの宮城でのアクバル帝の寝台である。石でできていて、かつ風通しのよい場所にある。アクバル帝はムガル王朝第3第皇帝であり、大帝である。生没年代は1542~1605(在位1556~1605)であり、豊臣秀吉の1536~1598と同時代人である。秀吉の朝鮮出兵で中国・明はぐらつき滅びたのだから、当時アクバルの耳にも中国は周辺小国から脅かされているという国際情報が入っていたかなあ、と想像すると楽しい。

で、寝台である。アクバル帝には3人の后がいた。ヒンズー教、イスラム教、キリスト教の后である。子供に恵まれなかったアクバルも、結果的にヒンズー教の后から子供ができた。この寝台のある建物の周りには各后の建物がある。夜になるとおつとめとしてこの寝台に来ていたはずである。

そこで、ガイドに、2人以上の后が同時に寝台に入ったのか?と超おばかなことを聞くと、そんなことねえ、とおこたいになりますた。


おばかなおいらの思い出でした。

インド特急のお茶

2004年08月12日 00時09分20秒 | インド
いか@ インドを思い出す。

これはインド特急で配られたお湯が入った魔法瓶である。このお湯を使って紅茶を自分で入れる。下記写真参照。

この紅茶セットにはキャンデーが付いている。紅茶を入れたあとこの魔法瓶は車掌さんによって回収される。

インドで鉄っちゃん。 DD51みたい。

2004年08月11日 06時49分40秒 | インド

いか@ はインドで幼きころの鉄っちゃん魂を思い出す。

デリー⇒ボパールを走る特急、ボパール・エクスプレスの牽引気動車である。なにやら日本のDD51に似ている。見かけによるとこれはディーゼル機関車なのだろうか?

【デリーと東京を比較する】日本ではインドの首都を「ニューデリー」というが、ニューデリーという言葉は日本だけで用いられているのではないか。米英ではデリーと呼ぶ。確かにデリーにはオールドデリーとニューデリーがある。その距離は3-4キロメータほどである。距離はさておきイメージとして東京でたとえるならば、上野と丸の内-霞ヶ関かな?ただし東京とデリーの決定的違いは、デリーでは支配者の交代によりその政治中枢が旧来とは別の場所に新たに造られたのに対し、東京では政権交代の際、すなわち江戸幕府から明治政府への交代の際、新政権の王が旧王の居城にパラサイトしたことである。つまり、東京の中心は江戸開闢以来ずっとあの「城」なのである。デリーでは20世紀のインド帝国、英国によるインド支配、の首都機能が新たに造られたのれがニューデリーである。東京でも明治新政府を構成する薩長征服者は、上野・浅草ではなく、山の手に住んだ。また、現在でも浅草と新宿ではその街の雰囲気は違うが、それはデリーのチャンドニーチョクとコンノートプレースの違いに似ているかもしれない。


デリー、普通の商店街

2004年08月10日 06時13分49秒 | インド
いか@ 日本でインドを思い出す。

先日、7日にショッピングモールの建物の写真を掲載したが、今日は普通の商店街。たくさん派手な広告が掲げてある。が、この一画の建物の中はそう充実していなかった。売っているものは主に衣料などである。食料品は見当たらない。

あと、英語教室とかキャリアスクールとかの看板が掲げていることがある。

【長袖】デリーで不思議に思ったことは、みんな長袖を着ていることである。40℃にもなるのに。この点をインド人に聞いてみたが、納得する答えはえられなかった。答えには①日焼けをさける、②蚊に刺されない、などがあった。おいらは半そでなので、それはimpoliteなのか?と聞いたが、そうではないとの答え。職場で半そでのインド人はひとりであった。

ロバor嫁姑

2004年08月09日 00時15分24秒 | インド
いか@ インドを思い出す。

工事現場の写真。まず、デリーの地面の下は決めの細かいさらさらの砂で構成されている。この現場ではまず地面を掘って基礎か地下室をつくらしい。そのため、まず掘っている。掘った砂は人とロバで運び出している。

【インド:嫁と姑】全然話は飛ぶが、あるインド人と話していて、嫁と彼の母親と一緒に暮らしていると聞いた。「おまえ、二人の仲は大丈夫か?関係はこじれないのか?」ときくと、「おれがコントロールしているから大丈夫だ」と自信ありげに答えたのが印象的だった。日本の夫のように両方にいい顔してことなかれ主義でしのぐという感じはしなかった。インドではやはり家族の絆、大家族の絆は強い。これは大家族で円満に生きていく術がなければなりたたない。こういう術こそ文化の真髄である。摩擦がおきればすぐ分離して問題解決をはかる個人主義とは大きく異なる。