先日のブログ記事(林芙美子-改造社「チャンネル」で、窪川いね子/佐多稲子に三度出くわした。 )において、高杉一郎著、『極光のかげに、 シベリア俘虜記』を読んだら、インテリ兵が窪川いね子の無節操を非難する場面があったと書いた。長いコピペは上記リンク先にあるが、一部を再掲すると;
「僕なんか気の利かない学校教師だから、いつもバスに乗り遅れてばかりいるけどね、人間の思想的変貌というのはどうなんだろうな。突然そう言ってもわからんかもしれないが、例えば窪川稲子ね、いつか 『日本新聞』に、彼女がマッカーサー司令部を訪問したという記事があったろう。窪川は『キャラメル』工場からで売り出したいわゆるプロレタリアート作家 だ。それが、戦争がはじまったら陸軍報道部あたりの金で南方に行って来てさ、そうかと思ったら、こんどはまたあの記事だ。いったい、彼女の立場というの は、どうなんだい?」
なにごとについても歯に衣をきせない江戸っ子気質の川上が、ばっさりと斬ってすてるような放言をした。
「女給というものは、新しいお客が入ってくるたびに笑顔を見せなければならないのさ」
といった風。
この場面を、おいらは、これは絶対創作だろうに違いない、と思ってしまった。ちなみに、創作とおもった第一の理由は、「「僕なんか気の利かない学校教師だから、いつもバスに乗り遅れてばかりいるけどね」のくだり。時流に乗り遅れている教師の自覚というのは創作者じゃないと気づかないのではないか?と思ったからだ。まずは、時流の乗り遅れる教師の対極にあるものとして時流に乗って世渡りがうまい作家という理想形がある。その理想形をさがすと、いた! つまりは、その理想形として窪川が選ばれたのではないか。事実に即して。事実、窪川いね子は、プロレタリア文学作家であったのに今では従軍作家であった。こういういきさつで、このある教師のインテリ兵士が無節操な知識人を揶揄・罵倒したという場面をつくったのだとおいらは思った。
違った。実話だと、高杉一郎はいうのである。高杉一郎、『往きて還りし兵の記憶』に書いてあった。この『極光のかげに、 シベリア俘虜記』が掲載された雑誌が発行されてまもなく窪川稲子から怒りの手紙が高杉一郎のところに来たとのこと。
高杉はおっとり刀(?)で住んでいた静岡から(?)上京。東京といっても、北多摩郡。窪川の家をアポなしで訪問、弁明しようとした。でも、結局許してもらえなかった。
なお、窪川稲子の具体的な怒りはかかれていない。ただ、「女給」という表現が問題であるとのことは書いてあった。そして、「女給」という表現を使ったことの妥当性を高杉は述べている。
ところが、一番肝心な点であろう知識人の節操ということ、つまりは窪川がなぜ軍部の仕事を受けて南方に行ったのか?という疑問は高杉一郎によっては全く探究されていない。ただし、宮本百合子が”『キャラメル工場より』を書いた窪川稲子、『くれなゐ』を書いた窪川稲子が、侵略戦争のために協力するということは会得できないことであった"に文章にはじまり窪川を分析している文章を引用して、宮本百合子が心をこめて窪川を批判していると高杉は書いている。
結局、高杉は窪川と和解することができなかった。
さらに後日談がある。1956年。高杉が窪川と決別して5年ほど後。静岡市で開かれる講演会に畔柳二美と窪川稲子が講演者となる予定だった。しかし、二人は静岡に先立つ九州での講演会の後、物見遊山に興じるため、静岡での講演をドタキャンしたらしい。畔柳二美本人がその事情の文章を発表したらしい。その事情を知った高杉一郎は;
私自身はこの事件の直接の被害者ではなく、ただの傍観者でしかなかった。しかし、これは普通の市民道徳から考えただけでも、ゆるせないと思った。そこへたまたま雑誌『新日本文学』編集部が私に原稿をもとめてきたので、私は「サボタージュについて」という文章を書いて送った。
私は東京から一通の手紙を受け取った。差出人はまだ一度もお会いしたことのなかった古在由重で、「よくぞ書いてくださった」という鄭重な手紙だった。 (高杉一郎、『往きて還りし兵の記憶』)