いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

1945年敗戦時、共産党出獄組の「マッカーサー元帥万歳!」について

2015年08月16日 21時52分54秒 | 日本事情

敗戦直後、マッカーサー占領米軍と共産党が蜜月であったことはよく知られている。そして、1950年にレッドパージ=共産党追放で、占領軍の権力によって共産党は迫害・追放される。選挙に当選していた議員も公職追放なのだから、これは "「日本軍国主義」もやらなかった暴挙" だとおもうのだが、今日ではそんなに回顧されていように思う。日帝時代の治安維持法は悪魔の如く呪詛されるが、マッカーサーはそんなに怨嗟の的にはなっていない。

つまりは、共産党は占領軍に使い捨てにされたのだ。占領下で「自由」があると思うのが大間違いであったのだ。

さて、敗戦時の蜜月は、1945年10月10日に始まる。秋は月!。獄中にあった共産党員、(正確に言えば当時共産党は壊滅して組織が存在しないので「元」共産党員)、のうち府中刑務所組は1945年10月10日に出獄した。この出獄は占領軍・マッカーサーによる命令であった(民権自由に関する指令 [google])。

この共産党員の出獄は有名で画像も残っている。徳田球一、志賀義男などこの後日本共産党の指導者となるお歴歴の釈放だった。

 
政治犯釈放で一団となって府中刑務所を出る徳田球一(左から2人目)、志賀義雄(同3人目)ら共産党員 1945年10月6日 東京・府中刑務所で。 (なお、日付については最後尾の註を参照のこと) 
ソース: http://showa.mainichi.jp/news/1955/07/post-dc11.html

この時、共産党はアメリカ占領軍を「解放軍」と認識、喧伝した。その文書はパンフレットとしてあるらしい。

さて、今日の記事を書いた理由は、おいらは、徳田球一、志賀義雄らが出獄した時、「マッカーサー元帥万歳!」と叫びつつ出獄したというイメージを持っていた。上記画像の場面でのことなんだろうか? この徳田球一、志賀義雄らの「マッカーサー元帥万歳!」の史実はどうなんだろう?とその根拠は何だろう?と素朴に思っていた。

最近知った。あった。 平林たい子の『宮本百合子』にこうある;

 (=10月9日に網走刑務所を出獄した宮本顕治:いか@註)より一日あとで府中刑務所を出た徳田球一や志賀義雄らは、外にいる人達の奔走でととのえられた再建共産党を手みやげに、お祭りさわぎで迎えられた。
 示唆運動さながらの行進の周囲では、タブロイドのリーフレットが一部五円でとぶように売れる景気のよさだった。彼等のリーフレットには進駐軍を「解放軍と規定する」とかいてあった。彼等はマッカーサー司令部の前で、マ元帥万歳をした。徳田もまた在獄十八年からの復帰第一声に、アメリカ軍の好意を感謝した。
 アメリカ軍との蜜月はしばらくつづいた。彼等は占領軍の微妙な戦術におどって、虜に感じる快さだけで、アメリカ軍に対していた。伊藤律や伊藤憲一などは、マ司令部に入り浸った。 (平林たい子、『宮本百合子』)

彼等はマッカーサー司令部の前で、マ元帥万歳をした。」とある。そうか、徳田球一、志賀義雄らが出獄した時、府中刑務所から、都心まで出て来て、皇居お堀端の第一生命ビルのマッカーサー司令部に釈放感謝のあいさつに行き、そこで、「マッカーサー元帥万歳!」とやったのか、とわかった。

でも、この平林たい子の記述の根拠は何か? この平林たい子の記述を知ったあと、ググった。

あった; 

日本共産党の創立メンバーで麻中刑務所に収監されていた徳田球一と志賀義雄らは、一九四五年十月十日、解放される前に『赤旗』復刊第一号を外部の印刷所で刷りあげていました。 ... 街頭デモに移り:マッカーサー司令部前で万歳を叫んで解散した」(『朝日新聞』一九四五年十月十一日付

『ひと目でわかる「GHQの日本人洗脳計画」の真実』(Amazon)という本に情報ソースが記されていた。(この本の本文もネットで見れる→ここ)なお、著者の水間 政憲さんという人は「事実」に基づく歴史の再認識を主導されている人らしく、おいらも、YouTubeで見たことがあった。

つまりは、徳田球一、志賀義雄らの共産党のデモ隊がマッカーサー司令部で「マッカーサー万歳!」とやったという史実の根拠は朝日新聞の記事ということになる。

朝日新聞の記事なのか、それじゃ抜粋縮刷版(「朝日新聞に見る日本の歩み(昭和20年-21年)」)で確認すればよいとおもい、おいらはみた。

昭和20年10月11日の朝日新聞。見出しは;出獄者歓迎、 共産派の気勢。 

本文(冒頭一部)は;

解放運動犠牲者救援会、朝鮮政治犯釈放委員会などの主催による「出獄戦士歓迎人民大会」は十日午後二時から芝区田村町飛行会館五階講堂で行われた。会場には赤旗が立ち「一切の戦争犯罪人を処罰せよ」「人民共和政府樹立」などのビラが貼られ聴衆約千人、その中には多数の婦人が含まれていた(中略)
 ついで赤旗を先頭に雨の街頭をデモに移った。なお徳田球一、志賀義雄等はこの日府中の拘禁所より出獄したが、獄内の様子陳情のため直ちに米軍第一騎兵師団に出頭、結局この大会には参加しなかった。

とある。「マッカーサー万歳!」の記述は見つけられなかった。別の朝日新聞の記事に「マッカーサー万歳!」のことが書いてあるのだろうか?

 
1945年(昭和20年)10月11日の朝日新聞記事

■ なお、上記出獄時の画像の説明で釈放が10月6日とある。毎日新聞はネット上でそう云っているのだ。一方、朝日の当時の報道では釈放は10月10日である。こういう基本的な事実も合っていない。 いろいろ、難しいな、史実。