草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

床屋政談レベルの「大衆」に媚を売るマスコミと知識人を嗤う!

2015年08月12日 | 思想家

嫌な感じがする。正面切って平和安全法制関連法案を批判するのではなく、大衆受けするようなレッテル貼りが横行している。得体の知れない大衆という存在を無視しては、政治を行うことはできなくなっているのだ。オルテガは『大衆の反逆』(桑名一博訳)において、大衆が政治を専門家に任せていた「自由主義デモクラシー」ではなく、大衆が主人公になった「超デモクラシー」の危機を論じた。「自分たちには喫茶店の話から得た結果を社会に強制し、それに法的な効力を与える権利があると思っている。私は、われわれの時代におけるほど群集が直接的に支配権をふるうようになった時代は、歴史上かつてなかったのではないかと思う。それだからこそ、私は超デモクラシーについて語るのである」。一知半解にもかかわらず、あらゆることに口を出したがるのである。そして、マスコミも世論なるものを根拠にして、政治を変えることを当然視している。大衆を絶対化すれば、国は誤った方向に向かうことになるのに、歯止めがなくなっているのである。私的な領域に関心事がとどまり、崇高な価値を追い求めない者たちには、最良の判断は困難なのである。オルテガもそのことを明確に言い切っている。「すぐれた人間は、自分の生を何か超越的なものに奉仕させないと生きた気がしないのいだ。したがって彼は、奉仕しなけれなならないことを圧迫だとは考えない。たまたま奉仕する対象が欠けると不安を感じ、自分を押さえつける、より困難で、より求めることの多い新しい規範を発明する。これが規律からなる生、つまり高貴な生である」(『同』)。知識人までもが大衆に媚を売っているのは、あまりにも愚かである。今回の反対運動の根本にあるのは、法案の良し悪しではなく、大衆の単なる暴走なのである。だからこそ議論にならないのであり、嫌な感じがするのである。

 

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