草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

人間の内面の自由と信仰

2022年08月23日 | 思想家
 
 アメーバーブログでも連日アップしています。
 いかなる組織に属していようとも、法と社会秩序に反しない限り、どんな人間であろうとも罰せられてはならないのである。
 しかし、多くの日本人には、そのことがよく理解できないようだ。旧統一教会との接点のあるなしが問題になっているが、それは行過ぎたマスコミの煽りでしかない。どこの宗教を信じていようが、それで人を裁くべきではないのである。オウムのように犯罪に手を染めれば、法にもとづいて極刑にするとか、解散に追い込めばいいのである。
 今回のことで大騒ぎしているのが、圧倒的に全体主義者であることも興味深い。公安の監視対象である共産党あたりが、旗振りをしているからだ。スターリン主義者の彼らは、内面の自由など考えたこともないはずだ。自分たちこそが正しい、と上から目線で批判しているだけである。
 今の日本人は、信仰というものをどう考えているのだろうか。何が心の支えになっているのだろう。ヤスパースは『根源的に問う哲学対話集 ハンス・ザーナー編』(武藤光郎、赤羽竜夫訳)で、「私が、聖書なしには私たちは虚無の中にすべり落ちる、と言うとき、私は歴史的に、私たち西洋人についてこれを考えております」と述べている。人間には宗教が不可分であり、欧米人にとっては、それが聖書なのである。
 翻って、私たち日本人に何があるかを、立ち止まって考えるべきではないか。先の戦争に我が国が敗れたときに、折口信夫は「天子非即神論」を書き、日本の神々が敗北したという持論を展開した。カルト宗教という言い方があるのならば、本物の宗教もあるのだろう。それをどのように区別するのか。信じるにたる宗教とは何なのかを、議論すべきときなのである。山折哲雄は「一神教は信じる宗教、神道は感じる宗教」と言っており、大いに参考になる言葉である。
 どんな人にも必ず死は訪れるのである。今回の旧統一教会騒動は、それを考える一つのきっかけになったのではないだろうか。単なる旧統一教会の問題にとどまず、そこには、人間としての根源的な問いも含まれているからである。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする