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僕はテレビはほとんど見ない。ワイドショーは音を聞くのも嫌である。コメンテーターは局に命じられたそのままを口にしているのだろうが、あまりにもわざと過ぎる。
マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』(脇圭平訳)で、ジャーナリストについて触れている。世の中の出来事を分かりやすく解説し、一定の指針を示す職業として、ジャーナリストがある。それだけに、ヴェーバーの言っていることは、含蓄に富んでおり、大いに参考になる。
「市場の需要があればどんなことでも、また人生のありとあらゆる問題にについて即座に納得のゆく意見を述べ、しかもその際、断じて浅薄に流れず、とりわけ品位のない自己暴露にも、それに伴う無慈悲な結果にも陥らないということ、これも決して生やさしいことではない。だから、人間的にも崩れてしまった下らぬジャーナリストがたくさんいても驚くに当たらない。驚くべきはむしろそれにもかかわらず、この人たちの間に、立派で本当に純粋な人が―局外者には容易に想像できないほど―たくさんいるという事実の方である」
ヴェーバーは、ジャーナリストをそれなりに評価しているのである。大半がセンセーショナルな記事を書くだけの騒動師であるとしても、そうでない人たちも、想像以上にたくさんいるからなのである。
今回の統一教会騒動で、ジャーナリストの色分けがはっきりした。マスコミに同調して大衆迎合的な物言いをするのは最悪である。集中砲火を浴びても、信念を貫く人たちが、予想以上にいたのには感動した。ヴェーバーが書いたことは間違ってはいないのである。
ジャーナリストには誘惑が付きものである。普通の人が経験しないような場面にも直面するはずだ。「内的確信」が試されるのである。金の誘惑もあるに違いない。マスコミ全体が左翼の牙城である。外国勢力からの働きかけもあるだろう。そこで筆をまげないというのは、かなりの勇気が求められる。
今の時代のまともなジャーナリストには「憲法を正面から論じる」「アベガ―に与しない」「外国の脅威から目を背けない」「反財務省である」という共通点がある。
具体的な名前を挙げることはできないが、私たちネット民は、サイレントインベーションに対抗するためにも、立派で純粋なジャーナリストを応援しなくてはならない。言論戦も日を追うごとに熾烈になってきており、ここで負けるわけにはいかないのである。