政治を論じると決まって、ある種の絶望感にさいなまれる。どうすれば局面を打開できるかに、力点がかかってしまうからだ。根源的な思想性は脇に追いやられてしまう。そんな私を慰めてくれるのは、ヴァーグナーである。しかし、その理由を語る能力は私にはない。川村二郎に「ヴァーグナーの没落―アドルノに即して」(『限界の文学』)がある。ヴァーグナーについて「享受する側の感受性を総合へとみちびくより、むしろそれを個々の感覚の要素に分解しる働きがあるのではなかろうか。感受性が統一を失えば、あるいは対象を総体として受け入れる心の用意にも欠け、あるいはあれこれの思弁が失われた統一の裂目に入りこむ余地も生ずるのではないだろうか」と解説している。混乱し闇の前に立たされるのである。それを説明するにあたって、川村はアドルノの言葉を紹介する。「世界の一切の既成秩序を呪い、その没落を願うことが、そのまま自己への呪い、自己抹殺の願いになる。これがヴァーグナーの心性の基本的な構造だとアドルノは考える」。しかし、その一方でアドルノは「ヴァーグナーの音楽が、その約束をはたさなかったからこそ、それは不完全なまま、完全に仕上げられるべきものとしてわれわれの手に与えられているのです」とも書いており、未来への希望を捨てなかった。川村も触れているように、現代人の孤独を癒してくれるのは、政治によってではなく、あくまでも芸術の領域なのである。私がヴァーグナーで癒されるのは、もっと奥深い力が働くからだろう。
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