日本で今大きな高まりを見せている保守の運動は、侮れない力を持ちつつある。庶民レベルでの不満を発散させる場として意味があるからだ。かつての共産主義の運動と同じように、そこに求いを求める人たちは、日に日に増加してきている。エリック・ホッファーの『大衆運動』に、それを理解する上に、大きな示唆を与えてくれる。ホッファーは大衆運動について「彼の魂。カタルシスのためばかりでなく、彼の意向を実現し、才能を行使するためにーあつらえられたのではないかと思われることさえある」と書いている。日々の暮らしのなかで満たされない人々のはけロになれば、そこに大変なエネルギーが生まれるのである。ホッファーは客観的に述べており、それでもって批判しているわけではない。運動の形態は様々てあっても、根本においては変わりがないのである。そこで注目されるのは、誰がどのグループが主導権を握るかなのでぁる。いかなる愚かな存在の人間であろうとも、救済の機令が与えられるならば、大きな喜びとなるのである。それは愚行と言えば愚行ではあるが、歴史の起爆剤となったことも、否定できない事実なのである。保守の運動がそれを取りこんでいるのである。
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