「尾崎豊と躰道のエピソード」(尾崎健一氏・記)
豊が歌手デビュー後結婚して、男の子供ができたとき、子供にも是非躰道を教えようと思ったようです。忙しいツアーの間をぬって、新目白通りの円形のガスタンクの隣にある練馬体育館に時々顔を出してどなたかにご指導を受けたこともあるらしい。
『久しぶりに(躰道を)やったので、今日は体の節々が痛くてしょうがないヨ』などとツアーの合間に、事務所を守っていた私と母の傍らにきて、満更でもない顔をして話していった記憶が残っています。また、どうせ一人の子供に教える位なら道場を持とうという考えに到達した豊は、少しばかり資金もできたせいで、早々とその実現を思い描くようになったようです。ツアーの合間に、事務所へ戻る度に、私にむかって『よい道場みつけといてくれた?』と、本気に聞く有様です。
こちらは当面の彼のツアー完走のみが素人経営者の私にとっては目前の大問題で、それどころではない切迫した気分でしたが、豊の気持も察して『あちこち当っている最中』と答えておりました。豊がもう少し存命したならば、必ずどこかに道場をもったことは間違いなかったと思います。
豊の思い描く道場は、大きな二階建で下が「躰道の道場」、上は「学習塾」でこちらの方は兄の康に任せる、とかなり具体性を帯びていました。当時兄の方はかなり大きな学習塾の理事候補で、塾講師を兼務しておりました。
彼の夢の原型になったモデル校が今も朝霞にあります。下が剣道道場で上は学習塾となっております。ちなみに、彼の死後、豊のこうした意志をきかれた躰道創始者・祝嶺正献最高師範から『躰道五段・教士』の免状と『黒帯』を贈って頂きました。今は大切に私が保管し、やがて豊の遺児裕哉(ひろや)が青年になった時、こうした父・豊の志を告げてこれを渡そうと思っております。
更にデビュー後の豊に躰道が益したのは、躰道の技――身のこなし――の美しさです。ロックアーチストというのは、すべてが自作自演の世界のようです。作詞、作曲、歌唱までの自作自演は誰も知るところですが、舞台でのフリまですべて自前です。『廻し蹴り』は豊の得意技で、時々舞台ではマイクを相手に披露していました。マイクすれすれのケリは中々難しかろうと、私は若干ハラハラし乍ら観ていたものです。
その頃、他のアーチストの中でも次第にそのフリをまねる者が出てきて『あいつ、俺のマネをしている』などとテレビを見ながらつぶやいているのを覚えています。ただ私が見ると、空手の心得のない人の廻しゲリは、実にサマになっていないものが多かったのですが、最近は皆がうまくなったような気がします。当時豊が、深夜、創作の合い間に、自分の部屋に立てかけた大鏡にむかって、ギターを抱えたり、持たなかったりし乍ら、懸命にフリの研究をしていた姿を思い出します。