毎日新聞のコラム「田中優子の江戸から見ると」の最新号に深く頷いた。
ここで中島岳志さんが指摘したという記事については、私もとても興味深く読み、なるほど、と膝を打っていたからだ。
以下、転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
学問なき政治家たち(2020年8月12日 毎日新聞 東京夕刊)
ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者を「業病」(祖先や自分の悪業の結果としての病)とツイートしたことをきっかけに、本紙サイトで石原慎太郎氏の今までの差別発言を振り返っている。とくに中島岳志さんが「健康への強いこだわり」が石原氏の背後にあることを指摘した記事が興味深かった。
健康不健康を軸に考えると、その発想の特徴が見えてくる。学者の言葉の意味を理解できずに発言した「ババア」発言、「原発に反対するのはサルと同じだ」発言、小池百合子東京都知事への「厚化粧」発言など、どれもが言葉について自分なりの基準がない。人間はどこから不健康と言えるのか? 生産性の問題なら、年齢性別問わず子供のいない人すべてがババアと罵倒されるべきなのか? 人間もサルも道具を使うが、サルだけは道具使用について反対表明をするということか? 化粧が厚い薄いはどこから分かれるのか? どれも笑うしかないテーマだが、世間の軽口を粗雑に使っているのみで思想も基準もない。江戸から見ると、こういう人がものを書き、政治のトップにいたこと自体、非常に驚愕(きょうがく)の事実なのである。
江戸時代の人々は、人間にとってもっとも大切なのは「徳」だと考えていた。「徳孤ならず必ず隣あり」が人口に膾炙(かいしゃ)していたように、徳によって人間関係も豊かとなり、結果として富がついてくることもある。武士や商人は藩校や私塾で徳をそなえた人間を目指し、まっとうな人間になるために学問をした。学問をした人間だけが、世を治める資格があると考えた。
身分制度が根底にあったためにその撤廃と同時に学問についての考え方も排斥されてきたが、社会はどうあるべきか、人としてどう生きるべきかを問うことは、どんな時代でも学問の根幹にある。私たちは投票にあたって、「この人は人間として政治を預けるに値するか」を、もっと徹底して調査すべきだろう。(法政大総長)
(転載終了)※ ※ ※
健康こそ善であり、不健康は悪という軸で考えると、私は今、精神的にはなんとか健康を保つように努めてはいるが、身体的にはとても健康とはいえない。ステージⅣのがん患者であり、かつ既に生産性が低下したババアに違いない。厚化粧かといえば、殆どすっぴんであるが。
以下、中島さんの記事「健康への強いこだわり、不健康に直面する恐怖」で特に気になった部分についても転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
◆実際は、高齢になって脳梗塞(こうそく)もわずらい、若い時のように体の自由が利かなくなっている現状にすごくいらだっているのだと思います。数年前、文芸誌の対談でその状況を「怖い」と述べていました。鏡に向かって「自分は駄目だ」と言っている、と明かしており、これまでさげすんできた存在に自分自身がなってしまっていることに恐怖を感じているように見えました。
その一方で、自分の本質的な弱さを味わったのに、ますます「健康」を第一とする若い時の考えに固執しているのです。普通であれば、自分の弱さを知ったら、同じ立場の人に温かいまなざしが生まれると思いますが、そうはならなかった。彼にとって年を取っていくことは肉体の衰えであり劣化なんでしょうね。すなわちそれは「不健康」で、自分が退けようとしてきたものに自分がなっている。そのことが受け入れられないんでしょう。自分の積み上げてきた世界に反省的なまなざしを向けられない、ということが、彼の弱さだと思います。弱さに向き合えない弱さがすごくあり、それが今回の暴言につながっているような気がします。
――自分の弱さを受け入れられないのは、石原氏自身もつらいのではないですか。
◆そうだと思います。戦後復興や高度成長を経験した世代の日本人男性に多いパターンです。自分が元気な時は「生産性」を重視する価値観で生きていた人が定年退職して、体が弱っていくと、自分自身の生産性のなさに直面して、家に引きこもったり抑うつ症状に悩まされたりする人が案外多くいます。過去に自分が築いてきた人間観や世界観を崩せないからです。日本の男性がリタイア後に地域社会に溶け込めず、孤立化する問題ともどこかつながっているかもしれません。
(転載終了)※ ※ ※
あれだけ怖いものなしで、度重なる問題発言を起こしても、彼だけはなぜかいつの間にか大きなおとがめなしにまた表舞台に戻ってきていた。何度も何度も、あたかも何もなかったかのように。
中島さんが言っておられる通り、普通は自分が弱い立場になったら同じ立場の人に温かいまなざしが生まれるものなのだ。けれど、彼はそうはならなかった。
自分が忌み嫌っているものに自分が近づきつつあることが心底耐えられないのだろう。その苛立ちが痛いほど感じられる。
でも、どんな人も生まれてきたら平等に老い、場合によっては病み、やがてどんな形であれ必ず死を迎えるわけで、いつまでも最強の自分でいられるわけではない。
そんな自分の弱さを受け入れられない。それはとても辛く哀しいことではないか。言ってみれば人としての一生を送ることが受け入れられないということだ。
90歳を目前にした彼がなんだかとても可哀想でちっぽけな老人に見えた。
人は皆、弱い。誰かに支えられなければ一人では決して生きていけないのだ。いや、私は一人で生きている、と言う方がおられるかもしれない。けれど、本当に一人、何の世話にも関わりにもなってない、なんてことは、絶対ないと思う。
生きていくことは宙ぶらりん、昨年の今頃は思いもしなかったコロナ禍で、誰しもそのことを強く感じたのではないか。そして生きていくことは同時にとても恥ずかしいこと、赤面することが沢山だ。いつも強者の立場でいられるわけがない。いつも健康でいられるわけがない。
それが分かれば、こんな暴言を吐くなんてことにはならないと思うのだけれど、どうだろう。
そして田中さんが書いておられる通り、一有権者として、政(まつりごと)を行うリーダーには“徳と愛のある人”を選ばなければならない、と改めて思う(徳と愛のある人が実際に立候補しているかどうかは別次元の問題だが・・・)。
ああ、そういえば、この徳と愛のあるリーダーというくだりは、私が敬愛する若き瞑想ヨーガの恩師Sさんがスクール名に付けた頭文字であった(実際はこの先頭にさらに”美しく“が付く)。そのことに今更ながら驚くのである。
ここで中島岳志さんが指摘したという記事については、私もとても興味深く読み、なるほど、と膝を打っていたからだ。
以下、転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
学問なき政治家たち(2020年8月12日 毎日新聞 東京夕刊)
ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者を「業病」(祖先や自分の悪業の結果としての病)とツイートしたことをきっかけに、本紙サイトで石原慎太郎氏の今までの差別発言を振り返っている。とくに中島岳志さんが「健康への強いこだわり」が石原氏の背後にあることを指摘した記事が興味深かった。
健康不健康を軸に考えると、その発想の特徴が見えてくる。学者の言葉の意味を理解できずに発言した「ババア」発言、「原発に反対するのはサルと同じだ」発言、小池百合子東京都知事への「厚化粧」発言など、どれもが言葉について自分なりの基準がない。人間はどこから不健康と言えるのか? 生産性の問題なら、年齢性別問わず子供のいない人すべてがババアと罵倒されるべきなのか? 人間もサルも道具を使うが、サルだけは道具使用について反対表明をするということか? 化粧が厚い薄いはどこから分かれるのか? どれも笑うしかないテーマだが、世間の軽口を粗雑に使っているのみで思想も基準もない。江戸から見ると、こういう人がものを書き、政治のトップにいたこと自体、非常に驚愕(きょうがく)の事実なのである。
江戸時代の人々は、人間にとってもっとも大切なのは「徳」だと考えていた。「徳孤ならず必ず隣あり」が人口に膾炙(かいしゃ)していたように、徳によって人間関係も豊かとなり、結果として富がついてくることもある。武士や商人は藩校や私塾で徳をそなえた人間を目指し、まっとうな人間になるために学問をした。学問をした人間だけが、世を治める資格があると考えた。
身分制度が根底にあったためにその撤廃と同時に学問についての考え方も排斥されてきたが、社会はどうあるべきか、人としてどう生きるべきかを問うことは、どんな時代でも学問の根幹にある。私たちは投票にあたって、「この人は人間として政治を預けるに値するか」を、もっと徹底して調査すべきだろう。(法政大総長)
(転載終了)※ ※ ※
健康こそ善であり、不健康は悪という軸で考えると、私は今、精神的にはなんとか健康を保つように努めてはいるが、身体的にはとても健康とはいえない。ステージⅣのがん患者であり、かつ既に生産性が低下したババアに違いない。厚化粧かといえば、殆どすっぴんであるが。
以下、中島さんの記事「健康への強いこだわり、不健康に直面する恐怖」で特に気になった部分についても転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
◆実際は、高齢になって脳梗塞(こうそく)もわずらい、若い時のように体の自由が利かなくなっている現状にすごくいらだっているのだと思います。数年前、文芸誌の対談でその状況を「怖い」と述べていました。鏡に向かって「自分は駄目だ」と言っている、と明かしており、これまでさげすんできた存在に自分自身がなってしまっていることに恐怖を感じているように見えました。
その一方で、自分の本質的な弱さを味わったのに、ますます「健康」を第一とする若い時の考えに固執しているのです。普通であれば、自分の弱さを知ったら、同じ立場の人に温かいまなざしが生まれると思いますが、そうはならなかった。彼にとって年を取っていくことは肉体の衰えであり劣化なんでしょうね。すなわちそれは「不健康」で、自分が退けようとしてきたものに自分がなっている。そのことが受け入れられないんでしょう。自分の積み上げてきた世界に反省的なまなざしを向けられない、ということが、彼の弱さだと思います。弱さに向き合えない弱さがすごくあり、それが今回の暴言につながっているような気がします。
――自分の弱さを受け入れられないのは、石原氏自身もつらいのではないですか。
◆そうだと思います。戦後復興や高度成長を経験した世代の日本人男性に多いパターンです。自分が元気な時は「生産性」を重視する価値観で生きていた人が定年退職して、体が弱っていくと、自分自身の生産性のなさに直面して、家に引きこもったり抑うつ症状に悩まされたりする人が案外多くいます。過去に自分が築いてきた人間観や世界観を崩せないからです。日本の男性がリタイア後に地域社会に溶け込めず、孤立化する問題ともどこかつながっているかもしれません。
(転載終了)※ ※ ※
あれだけ怖いものなしで、度重なる問題発言を起こしても、彼だけはなぜかいつの間にか大きなおとがめなしにまた表舞台に戻ってきていた。何度も何度も、あたかも何もなかったかのように。
中島さんが言っておられる通り、普通は自分が弱い立場になったら同じ立場の人に温かいまなざしが生まれるものなのだ。けれど、彼はそうはならなかった。
自分が忌み嫌っているものに自分が近づきつつあることが心底耐えられないのだろう。その苛立ちが痛いほど感じられる。
でも、どんな人も生まれてきたら平等に老い、場合によっては病み、やがてどんな形であれ必ず死を迎えるわけで、いつまでも最強の自分でいられるわけではない。
そんな自分の弱さを受け入れられない。それはとても辛く哀しいことではないか。言ってみれば人としての一生を送ることが受け入れられないということだ。
90歳を目前にした彼がなんだかとても可哀想でちっぽけな老人に見えた。
人は皆、弱い。誰かに支えられなければ一人では決して生きていけないのだ。いや、私は一人で生きている、と言う方がおられるかもしれない。けれど、本当に一人、何の世話にも関わりにもなってない、なんてことは、絶対ないと思う。
生きていくことは宙ぶらりん、昨年の今頃は思いもしなかったコロナ禍で、誰しもそのことを強く感じたのではないか。そして生きていくことは同時にとても恥ずかしいこと、赤面することが沢山だ。いつも強者の立場でいられるわけがない。いつも健康でいられるわけがない。
それが分かれば、こんな暴言を吐くなんてことにはならないと思うのだけれど、どうだろう。
そして田中さんが書いておられる通り、一有権者として、政(まつりごと)を行うリーダーには“徳と愛のある人”を選ばなければならない、と改めて思う(徳と愛のある人が実際に立候補しているかどうかは別次元の問題だが・・・)。
ああ、そういえば、この徳と愛のあるリーダーというくだりは、私が敬愛する若き瞑想ヨーガの恩師Sさんがスクール名に付けた頭文字であった(実際はこの先頭にさらに”美しく“が付く)。そのことに今更ながら驚くのである。