散日拾遺

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読書メモ 007 『薔薇の名前』

2013-09-05 11:52:00 | 日記
これを最初に読んだのは、たぶん1991年頃。

今でも話題になるのだと次男から聞いて、「あれは面白いんだぞ」と顎をしゃくったものの、どう面白いのかディテールが説明できず、あわてた。
本棚の思ったところに、分厚い2冊本が鎮座している。読みなおし始めたら止まらなくなり、まる二日ハマった。22年前と同じ面白さがあり、甲羅を経た分こちらの了解力もいくらか増している(と思いたい)。

それよりすごいのは、ウンベルト・エーコというイタリア人の創造性の展開ぶりだ。昨年書店で『美の歴史』『醜の歴史』『芸術の収集』という三冊シリーズを見つけ、これがエーコの手になることを知ってたまげた。
『フーコーの振り子』を楽しみに読み始めたが、これがまた文庫本で1,000ページを超える大作である。もともとは記号論理学とかいう分野の学者なんだそうだ。

ハタと思いついたが、かのイタロ・カルヴィーノ(1923-1985)と世代も背景も近いのではあるまいか。調べてみるとエーコは1932年生まれだから、世代論的には微妙なズレがある。1945年に22歳であった者と、13歳であった者との違いだ。
宿題にしておこう。







*****

『薔薇の名前』に戻っていうなら、その面白さは一種のワルプルギスと言ったら良いか。中世カトリックの修道院は、山上の一つの宇宙である。ヨーロッパの全てがそこに集約されている。

ベンチョ・ダ・ウプサラとか、ホルヘ・デ・ブルゴスとかいった登場人物の名前から既にイメージは動き始めるし、そうでなかったらこの小説は退屈なばかりである。主人公であるバスカヴィルのウィリアムは、ロジャー・ベーコンやオッカムのウィリアムと親しい者と想定され、そこから想像される通り大陸の合理論とは違ったイギリス経験論の香りと、それ以上に少々奇を衒うイギリス人風味をたたえている。イタリア人の筆者はどうやらイギリス風に好意を寄せているらしい。ウィリアムとアゾトの主従コンビには、ホームズとワトソンが重なっても来る。そうした欧州紳士録的な側面が楽しめるならば。

もうひとつは、14世紀前半という時期の世界史における意味合いだ。
ダンテが現れ、ルネサンスが始まりつつある。皇帝派と教皇派がしのぎを削り、その力学の中で教皇庁がローマからアヴィニヨンに移るという驚天動地の出来事が起きる。アッシジのフランチェスコによって創始された「清貧革命」は、西方教会の存在根拠に深刻な疑問を突きつける。制度としては古くから存在した異端審問と魔女裁判が、マスにとって現実の脅威となるのも、この時期からだ。

それらすべての問題が『薔薇の名前』の中に「つっこまれて」いる。
これもだいぶ前に読んだ堀米庸三『正統と異端』(中公新書57)をテキストと考えれば、『薔薇の名前』は小説仕立ての副読本にあたるか。



だから、ですね。
『薔薇の名前』を本当に面白く読めるというのは、よほどの背景のある人なのだ。僕がその一人だとは言わない、「楽しく読めるようになりたいなぁ」ぐらいのところだが、これがヨーロッパで百万部単位で売れたというのは、何かの勘違いじゃないでしょうか。初の作品とは信じられない、みごとな推理小説仕立てが成功の秘訣ではあったろうけれど。

そういえば、渡米した頃にけっこうアメリカで話題になったのは、映画化されたからだと思い出し、さっそくツタヤで借りてき(てもらっ)た。
ショーン・コネリーがバスカヴィルのウィリアム、これは余人をもって代えがたいところ。異端審問官のベルナール・ギー役には、『アマデウス』でサリエリ役を演じたマーリー・エイブラハム(シリア移民とイタリア系の息子で、シリア正教徒なんだそうだ!)、これもハマリ役。

翻案はまずまずだろうか。
結末における登場人物の運命は、予想通りハリウッド風の脚色が加えられていた。仕方ないよね。
題名の「薔薇」を「村の娘」にひっかけたのには呆れて喝采。あざといなあ・・・

(なお、これが実は「お笑い小説」「お笑い映画」として読めることについて、愉快な記事をネットで発見。http://d.hatena.ne.jp/Britty/20090203/p1 そうだったんですか、失礼しちゃいました。でも、その伝でいくと『ファウスト』なんかも大笑いのお笑いですね。それで少しも構わないんですけど。)

以下、例によって若干の抜き書きだが、そうそう、その前に。

末尾近くで、盲目の老師ホルヘとウィリアムらが対峙する。
目の見える者たちの優位は、ロウソクの火が消えるとともに ~ ゼロになるのではなくて ~ 逆転する。暗闇の中では、盲人の方がはるかに俊敏に動くことができる。

なるほど、と思っているところへ、小豆島のMさんからこんなメールが届いた。

 家で一緒に仕事していたら、Hさんが「すまんけど電気つけてくれん?手元のお金が、よう見えんようになったわ」と言いました。
「もう、暗いん?」「暗いで」「ごめんごめん」
 あわてて電気をつけました。私は電気がなくても良いので、つけるのを忘れたり、消すのを忘れて寝てしまったりするんです(笑)。

目あきって不自由ですね、と笑ったことだった。

*****

・・・師は、宇宙の素晴らしさは多様性の中の統一性にあるばかりでなく、統一性の中の多様性にもあるのだ、と答えた。そういう返事は無教養な経験論に基づくもののように思えてならなかったが、後になってから、理性の輝きはあまり重要な働きをしないという言い方で、師と同郷の人士たちが事物を規定することを知った。(上、P.31)

自然や芸術の神秘を何もかも知らせてしまえば、天上の封印は破れて、もろもろの悪が飛び出してきてしまうであろう。秘密が暴かれてはならないということではない、その時期と方法を決定する権限が学者たちに属していなければならないということだ。(上、P.146)

昔から諺に言うように、ペンを握っているのは三本の指だが、全身で働いているのだ。そして全身で苦しんでいるのだ。(上、P.205)

「腑に落ちませんね」ウィリアムが言った。「なぜ、それほどまでにあなたは、イエスが笑ったと考えることに反対なさるのか。わたしの考えでは、笑いは入浴と同じように、精神や身体の不調を治すものであり、とりわけ憂鬱を治す特効薬だ。(上、P.209)

※ 「笑い」の意義が、実はこの作品全体のテーマでもある。それを説いたアリストテレスの『詩学・第2部』を決して世に出すまいとする意志が、連続殺人の背後に存在する。この件ばかりは、笑いごとではない(あるいは真の笑いごとである?)ように思われる。

「あの臭いには覚えがある。アラビア人たちが用いるものだ。たぶん山上の老人たちが手下の刺客たちに吸わせて・・・」
→ ハシッシュかな。(上、P.280)

事物と知性の一致以外の何ものでもない「真実」に対して、ウィリアムがまるで関心を持っていないかのような印象を、私は受けた。それどころか、可能なかぎり可能な事態を想像しては、わが師は楽しんでいた。(下、P.84)

※ 突飛なんだけど、翌週『十二人の怒れる男』を見た時、主人公が被告の無罪(not guilty)を主張する立論ぶりを見て、ちょうどこういう印象を受けた。この種の「面白がり」が必要な場というのがあるのだ。

「かつては、不正な世界を忘れるために、文法家たちは晦渋な問題に興じた。そして昼夜十五日にわたって、修辞家のガブンドゥスとテレンティウスとが《私(ego)》の呼格をめぐって議論し、しまいには刃傷沙汰に及んだという。」(下、P.94 これは笑いました。)

書物というのは、信じるためにではなく、検討されるべき対象として、つねに書かれるのだ。一巻の書物を前にして、それが何を言っているのかではなく、何を言わんとしているのかを、わたしたちは問題にしなければならない。(下、P.100)

「異端審問官は一切の通常の管轄権から除外されていて」「一般の法規定に従う必要はありません。弁護人の申し立てさえ聞かなくてもよいのです」(下、P.183 火盗改め!もっともあれは焼く係ではなくて、焼いた者を検挙するのか)

「何であれ、純粋というものはいつでもわたしに恐怖を覚えさせる。とりわけ、純粋さの性急な点だ。」(下、P.208)

「拷問にかけられると、いや、拷問にかけると脅されると、それだけで人間は自分がしたことばかりか、自分がしたいことまで、わけもわからずに口走るのだ。」(下、P.214)

「ずっと以前の話だが、ケルンの大聖堂で、洗礼者ヨハネの十八歳のときの頭蓋骨に、わたしはおめにかかったことがあるぞ」(下、P.266 「義経公、三歳のみぎりのされこうべ」、どこにでもあるんだね。)

「残り時間が少ない時に、冷静さを失ったら最後だ。私たちの前に永遠があるように振る舞わなければ。」(下、P.311)

「天地創造を神の笑いのせいにしている・・・神が笑うやいなや七神が生まれて、このようを治めた。神が笑い出すやいなや光が現われ、ふたたび笑うやいなや水が現われ、神が笑った七日目に魂が現われた。」(下、P.333)

「悪魔は物質界に君臨するのではない。悪魔は精神の倨傲だ。微笑みのない進行、決して疑惑に取り憑かれることのない真実だ。」(下、P.350)

「反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛から生まれて来るのだ。」(下、P.370)

<過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ>
(下、P.383)

以上



学生あり遠方より来る/三春人形その2/五輪招致あと二日

2013-09-05 07:55:29 | 日記
2013年9月5日(木)

明け方、猛烈な雷雨あり。いよいよこっちにも来ましたか。
新聞屋さん、さぞ怖かったろう。よくぞ届けてくださいました。

昨日は文京SCでゼミ指導、例によって遠方から卒論生・修論生がはるばるやってきた。大変だけれど、かけた時間と労力が自身の作業の価値を確実に高めている。頭が下がる。

山形のHさんは日大山形のベスト4進出(山形県勢で初)、群馬のKさんは前橋育英の優勝(前橋市の高校としては初)を、それぞれ嬉しそうに語った。スポーツの効は、侮りがたい。

大阪のFさんは、歯科衛生士向けの指導アトラスを出版した。神奈川のMさんは、助産師教育や業務に関する厚労省の方針に深刻な問題点を見出しつつある。山梨のGさんはオーストリア滞在の機会を活かして資料収集に余念がない。

みんな、えらいぞ!

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9月3日は「睡眠の日」なんだが、Hさんによれば「9(グ)+3(スリー)」でグッスリ眠るという洒落なんだそうだ。毎夜の蒸し暑さでグッスリには程遠いが、その9月3日に三春のAさんから『三春人形画』の第二弾、御恵贈あり。さっそく写真をここに掲げる。

中央のストロボ反射は見ないでください。
左に『鯛のりえびす』、右に『牛のり大黒』、七福神コア・メンバーのお二方が、ふくぶくとした笑顔を向けていらせられる。

七福神のうち生粋の日本生まれは、えびすさん。
大黒さんは、大黒天と同一視される限りで天竺のお方だが、大国主命と見れば国つ神の代表だ。
だからというわけでもないけれど、「えびす大黒」のコンビは何だか妙に嬉しいんだな。

Aさん、いつもありがとうございます。



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Aさん御夫妻の住む三春町は福島原発から西へおよそ40km、「除染」の成否が近未来の生活を直接左右するエリアにある。

2020年五輪開催地の決定を7日(土)に控え、ブエノスアイレスに派遣された御一行は「東京周辺の安全性」に集中する質問をさばくのに大わらわとの報。

結果がどう転んだにしても、そこに天の声を聞く耳が要るだろうと思う。
「五輪招致できる状態になるまで、しっかりやって出直しなさい」なのか、
「五輪開催の2020年までに、しっかり進めておきなさい」なのか、
違いはそれだけだ。