2013年9月26日(木)
朝からロクなことが目に入ってこない。
岐阜県の小学校で、匿名書き込みの怖さを教えるネット授業を実施。
記事によると、(岐阜聖徳大学)附属小では、6年生の授業で児童らにタブレットを使って匿名のチャットを書き込ませる試みをした。すると、書き込みは徐々にエスカレートし、5分ほどで誹謗中傷が増えてきた。そこで、教師が手元のボタンを押すと、チャットに書き込んだ児童の実名が表示され、教室が一転して気まずい雰囲気になったというのだ。
授業に出たある児童は、匿名でも結局ばれてしまい、「考えて書かないと」と感想を話していたという。
(http://www.j-cast.com/2013/09/03182883.html?p=all もともとの記事は日経新聞2013年8月17日)
やり方が適切かどうかには疑問もあるが、何もしないわけにはいかない現実がある。
その後、「2チャンネル個人情報流出・炎上事件」や「ツイッター解雇事件」などが続発したために、この小学校とソフト会社の目の付け所の正しさ(!)が裏書きされることになった。
そして今朝は・・・
匿名ブログで「復興は不要」 経産省官僚、身元ばれ閉鎖
朝日新聞デジタル 9月26日(木)2時8分配信
復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいい――。2年前、匿名ブログに書き込まれた一文が、ここ数日、インターネット上に広まり、騒ぎになっている。閲覧者らが身元を割り出し、筆者が経済産業省のキャリア男性官僚(51)であることがばれたためだ。事態をつかんだ経産省も「遺憾であり、速やかに対応する」として、処分を検討し始めた。
この男性は経産省の課長などを務め、今年6月から外郭団体に出向している。復興に関わる部署ではないという。ブログでは匿名だったが、過激な書き込みが目立ち、仕事にかかわる記述から閲覧者らが身元を割り出したとみられる。24日午後から、実名や肩書がネット上にさらされた。
「復興は不要だ」との書き込みは、2011年9月のもの。被災地が「もともと過疎地」だというのが根拠だ。今年8月には、高齢者に対して「早く死ねよ」などと書き込んだ。同7月には「あましたりまであと3年、がんばろっと」などと、天下りを示唆する内容も記した。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130926-00000006-asahi-soci)
***
当然ながら、このことの受け止め方に二つ考えられる。
A: 匿名性の保障は不完全なものだから、うっかりホンネを書いてはいけない。
(=もしも完全に匿名性が保障されるなら、何でも書いてやるぜ。)
B: 匿名であろうがなかろうが、言っていいことと悪いことがある。
苦い思い出は、桜美林時代に遡る。
「学生サービス」を至上とする誰かの指示で授業評価アンケートは完全無記名、当然の結果として目もあてられない「評価」が自由記述の中に散見された。
僕は被害の少ない方だったが、「方言を直せ」「声が聞き苦しい」などといった暴言を書き込まれる例が、毎学期のように同僚から聞こえてきた。
「アンケートは記名にせよ。誰が書いたかを教員に知らせる必要はなく、教務課どまりで良いので、記名することで責任をもたせよ」と主張したが、もちろん容れられはしなかった。
こうした暴言が教員の動機を著しく損ない、時には心を傷つけさえするということ、さらにはそれを許すことがいかに反教育的であるかということに、「誰か」は関心をもたなかったのである。
(この件、『街場のメディア論』で内田樹も触れている。P.96あたり、当ブログ9月6日 http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=2ed2e205b418e21a5246f838f5a3eb93)
面白いことに、放送大学に移ってからはこの種の暴言にさらされることがきわめて少なくなった。大規模アンケートの場合は事務レベルで不適切発言をチェックし、教員もマナー違反のものは無視して良いというお墨付きをもらっている安心感もあるが、そうしたチェックのかからない面接授業などでも非常に少ないのである。
全国9万人の学生を抱え、しかも入学試験がない(=高卒相当なら誰でも入れる)という放送大学の開放的なシステムを考えるなら、一見驚くべきことのようだ。
しかし考えてみれば、放送大学の学生は勉強したい一心で、身銭を切り自分の時間を割いて受講している。自分がそれだけ価値を置くものを、隠れたところから石を投げるような浅ましい行為で汚したいとは、人は思わないものだ。身を張って生活することを知っている大人が「勉強したい」と願う時、凛とした自己規制が自ずと生まれる。その違いである。
そして本来の大学は、そうした人々によって生み出されたはずである。
匿名性を活用できるためには、人間としての成熟度が必要だと言ってみたらどうだろうか。
生活年齢が長いことが必ずしも成熟を保証しないのは、上記のキャリア官僚を見ればわかる。
(この人は知的には相当すぐれた人に違いないが、そのモラルは放送大学9万人の学生の平均水準をはるかに下回り、全体としてかなり幼稚な発達水準にあるのだろう。)
しかし、どんなに恵まれた人間でも成熟までにある程度の生活年齢が必要なことは、これまた疑いを容れない。匿名性を適切に用いることのできない若年者を「呪い」の空間から遠ざけておくことは、ポルノグラフィや暴力的映像の禁止と同様に大事なことだ。
「若年者」に小中学生が含まれるのは当然として高校生も配慮の対象とすべきだし、もはや大人扱いせざるを得ない大学生の中にも(そして社会人やキャリア官僚の中にも)「若年者」は多数存在している。
そのことを伝える際、さしあたり上記Aの水準に歯止めを設けるのが現実的であるとして、本当の闘いは実はBの水準にあることを思わずにいられない。
人が見ているかいないかに関わらず、同じように行動するか/できるか。
そう言い換えてもいい。
「日本人は恥の文化なので見られなければ平気(=欧米人は罪の文化だから人目の有無にかかわらず同様に行動する)」
などと昔いわれたことは、この際きれいに忘れよう。
実際そんなことはないのだし、「罪」は内面化された「恥」であり、「恥」は現実の人間関係に投影された「罪」だから、両者はおおむね互換的だ。
「御先祖様に恥ずかしい」は、「神様の前に申し開きできない」と半歩の違いしかない。そして違いは内面・外面というよりも、罪/恥をもたらす対象が仲間集団に限定されるか、より普遍的な広さと深さをもちうるか、そのことのように思われる。
セントルイス時代に、ハイイログマみたいな巨漢のD牧師が、いつになくマジメな顔で語ったことがある。
「人が見ていようがいまいが同じように振る舞えるかどうか、キリスト教って要するにそこだよね。
(That's what christianity is all about.)」
おんなじだ!
*****
成熟度で連想しちゃったので、これまたロクでもないニュースについての下世話なつぶやき。
(僕の未熟さの証明だ。)
24日(火)、京都府八幡市で18歳少年の運転する車が集団登校の児童の列に突っ込んだ。
「ドリフト走行」をやり損なって児童の列の頭上を飛び越え、空中を7mだか20mだか飛んで畑に落ちたらしい。児童らは反射的にしゃがみこむ、その動作の遅れた子どもが頭を打って重体である。
祇園(2012年4月12日)、亀岡(同4月23日)のことが直ちに思い出され、「また京都か」といぶかるのは見当が外れている。交通犯罪は僕らの社会の深刻な病根で、突飛なようだけれど、毎日のように遭遇する暴走自転車の問題まできっちりつながっている。
下世話というのは、人もうらやむフェアレディZを、たとえ中古にしてもどうして18歳少年が自分のものとして運転できたかということなんだが、ふと見たらネットで既に大騒ぎになっているから、ここでやめにする。
*****
もうひとつだけ、クルム伊達が数日前の試合で、日本の観客の応援マナーに怒りを表したとのニュース。
勝負どころで、伊達のミスに対する「ため息」ばっかりで、ポジティヴな励ましが伝わってこなかったということらしいんだが、この人がこんな風に言うのはよほどのことではないか。
「勝負にこだわる柔道」などと、どこかでつながってくるような・・・
勝沼さん、きっと一言あるんではないですか?
朝からロクなことが目に入ってこない。
岐阜県の小学校で、匿名書き込みの怖さを教えるネット授業を実施。
記事によると、(岐阜聖徳大学)附属小では、6年生の授業で児童らにタブレットを使って匿名のチャットを書き込ませる試みをした。すると、書き込みは徐々にエスカレートし、5分ほどで誹謗中傷が増えてきた。そこで、教師が手元のボタンを押すと、チャットに書き込んだ児童の実名が表示され、教室が一転して気まずい雰囲気になったというのだ。
授業に出たある児童は、匿名でも結局ばれてしまい、「考えて書かないと」と感想を話していたという。
(http://www.j-cast.com/2013/09/03182883.html?p=all もともとの記事は日経新聞2013年8月17日)
やり方が適切かどうかには疑問もあるが、何もしないわけにはいかない現実がある。
その後、「2チャンネル個人情報流出・炎上事件」や「ツイッター解雇事件」などが続発したために、この小学校とソフト会社の目の付け所の正しさ(!)が裏書きされることになった。
そして今朝は・・・
匿名ブログで「復興は不要」 経産省官僚、身元ばれ閉鎖
朝日新聞デジタル 9月26日(木)2時8分配信
復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいい――。2年前、匿名ブログに書き込まれた一文が、ここ数日、インターネット上に広まり、騒ぎになっている。閲覧者らが身元を割り出し、筆者が経済産業省のキャリア男性官僚(51)であることがばれたためだ。事態をつかんだ経産省も「遺憾であり、速やかに対応する」として、処分を検討し始めた。
この男性は経産省の課長などを務め、今年6月から外郭団体に出向している。復興に関わる部署ではないという。ブログでは匿名だったが、過激な書き込みが目立ち、仕事にかかわる記述から閲覧者らが身元を割り出したとみられる。24日午後から、実名や肩書がネット上にさらされた。
「復興は不要だ」との書き込みは、2011年9月のもの。被災地が「もともと過疎地」だというのが根拠だ。今年8月には、高齢者に対して「早く死ねよ」などと書き込んだ。同7月には「あましたりまであと3年、がんばろっと」などと、天下りを示唆する内容も記した。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130926-00000006-asahi-soci)
***
当然ながら、このことの受け止め方に二つ考えられる。
A: 匿名性の保障は不完全なものだから、うっかりホンネを書いてはいけない。
(=もしも完全に匿名性が保障されるなら、何でも書いてやるぜ。)
B: 匿名であろうがなかろうが、言っていいことと悪いことがある。
苦い思い出は、桜美林時代に遡る。
「学生サービス」を至上とする誰かの指示で授業評価アンケートは完全無記名、当然の結果として目もあてられない「評価」が自由記述の中に散見された。
僕は被害の少ない方だったが、「方言を直せ」「声が聞き苦しい」などといった暴言を書き込まれる例が、毎学期のように同僚から聞こえてきた。
「アンケートは記名にせよ。誰が書いたかを教員に知らせる必要はなく、教務課どまりで良いので、記名することで責任をもたせよ」と主張したが、もちろん容れられはしなかった。
こうした暴言が教員の動機を著しく損ない、時には心を傷つけさえするということ、さらにはそれを許すことがいかに反教育的であるかということに、「誰か」は関心をもたなかったのである。
(この件、『街場のメディア論』で内田樹も触れている。P.96あたり、当ブログ9月6日 http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=2ed2e205b418e21a5246f838f5a3eb93)
面白いことに、放送大学に移ってからはこの種の暴言にさらされることがきわめて少なくなった。大規模アンケートの場合は事務レベルで不適切発言をチェックし、教員もマナー違反のものは無視して良いというお墨付きをもらっている安心感もあるが、そうしたチェックのかからない面接授業などでも非常に少ないのである。
全国9万人の学生を抱え、しかも入学試験がない(=高卒相当なら誰でも入れる)という放送大学の開放的なシステムを考えるなら、一見驚くべきことのようだ。
しかし考えてみれば、放送大学の学生は勉強したい一心で、身銭を切り自分の時間を割いて受講している。自分がそれだけ価値を置くものを、隠れたところから石を投げるような浅ましい行為で汚したいとは、人は思わないものだ。身を張って生活することを知っている大人が「勉強したい」と願う時、凛とした自己規制が自ずと生まれる。その違いである。
そして本来の大学は、そうした人々によって生み出されたはずである。
匿名性を活用できるためには、人間としての成熟度が必要だと言ってみたらどうだろうか。
生活年齢が長いことが必ずしも成熟を保証しないのは、上記のキャリア官僚を見ればわかる。
(この人は知的には相当すぐれた人に違いないが、そのモラルは放送大学9万人の学生の平均水準をはるかに下回り、全体としてかなり幼稚な発達水準にあるのだろう。)
しかし、どんなに恵まれた人間でも成熟までにある程度の生活年齢が必要なことは、これまた疑いを容れない。匿名性を適切に用いることのできない若年者を「呪い」の空間から遠ざけておくことは、ポルノグラフィや暴力的映像の禁止と同様に大事なことだ。
「若年者」に小中学生が含まれるのは当然として高校生も配慮の対象とすべきだし、もはや大人扱いせざるを得ない大学生の中にも(そして社会人やキャリア官僚の中にも)「若年者」は多数存在している。
そのことを伝える際、さしあたり上記Aの水準に歯止めを設けるのが現実的であるとして、本当の闘いは実はBの水準にあることを思わずにいられない。
人が見ているかいないかに関わらず、同じように行動するか/できるか。
そう言い換えてもいい。
「日本人は恥の文化なので見られなければ平気(=欧米人は罪の文化だから人目の有無にかかわらず同様に行動する)」
などと昔いわれたことは、この際きれいに忘れよう。
実際そんなことはないのだし、「罪」は内面化された「恥」であり、「恥」は現実の人間関係に投影された「罪」だから、両者はおおむね互換的だ。
「御先祖様に恥ずかしい」は、「神様の前に申し開きできない」と半歩の違いしかない。そして違いは内面・外面というよりも、罪/恥をもたらす対象が仲間集団に限定されるか、より普遍的な広さと深さをもちうるか、そのことのように思われる。
セントルイス時代に、ハイイログマみたいな巨漢のD牧師が、いつになくマジメな顔で語ったことがある。
「人が見ていようがいまいが同じように振る舞えるかどうか、キリスト教って要するにそこだよね。
(That's what christianity is all about.)」
おんなじだ!
*****
成熟度で連想しちゃったので、これまたロクでもないニュースについての下世話なつぶやき。
(僕の未熟さの証明だ。)
24日(火)、京都府八幡市で18歳少年の運転する車が集団登校の児童の列に突っ込んだ。
「ドリフト走行」をやり損なって児童の列の頭上を飛び越え、空中を7mだか20mだか飛んで畑に落ちたらしい。児童らは反射的にしゃがみこむ、その動作の遅れた子どもが頭を打って重体である。
祇園(2012年4月12日)、亀岡(同4月23日)のことが直ちに思い出され、「また京都か」といぶかるのは見当が外れている。交通犯罪は僕らの社会の深刻な病根で、突飛なようだけれど、毎日のように遭遇する暴走自転車の問題まできっちりつながっている。
下世話というのは、人もうらやむフェアレディZを、たとえ中古にしてもどうして18歳少年が自分のものとして運転できたかということなんだが、ふと見たらネットで既に大騒ぎになっているから、ここでやめにする。
*****
もうひとつだけ、クルム伊達が数日前の試合で、日本の観客の応援マナーに怒りを表したとのニュース。
勝負どころで、伊達のミスに対する「ため息」ばっかりで、ポジティヴな励ましが伝わってこなかったということらしいんだが、この人がこんな風に言うのはよほどのことではないか。
「勝負にこだわる柔道」などと、どこかでつながってくるような・・・
勝沼さん、きっと一言あるんではないですか?