2013年9月20日(金)
今週は火曜日の晩にCATの会、Kokomin さんが主宰者となって、イザベルさん、クチブエ君、勝沼さんらと精神分析などをサカナに歓談・放談。
こういうのは楽しいもので、みんな来ればいいのにな。
余談はさておき、今回は僕自身が140回も面接を続けて行き詰っているケースについて、皆からアドバイスをもらったのだ。
一人だけでやっていると、実に当たり前のことが見えなくなる。恥ずかしさもてんこ盛りながら、コメントしてくれる仲間のありがたさを思う。10年ほど前には僕が教室で教えた面々だが、今や頼もしい同業者である。
上記の行きづまりケースは『柔らかな頬』を読むきっかけになったMさんだったので、なぜMさんがそれほどこの小説に惹かれるのかといったことから、小説談義にもなった。もともと精神分析は芸術鑑賞には必須のツールだし、当然ノリは良いのだ。
今回は勝沼さんが福島の仕事で珍しく欠席。
クチブエ君がPC上で「方言チャート」というのを見せてくれた。
早速やってみたら、僕は「山口県人」ということになったよ(!)
***
会場に向かう電車の中で、ふと思い当たった。
『4TEEN』を面白く読んで、しかし何か違和感を覚えたことについて。
少年たちのひとりが、犯罪にあたる行為を犯してしまう。
「過って」かどうかは微妙なところだが、結果的には取り調べの末、無事に帰される。
他の三人は終始一貫、彼を仲間として支え続け、それが彼を立ち直らせることは、しかあるべし。それでこそ友達だ。
何かトゲのように引っかかっていたのは、彼らの励ましの中に見られるある種の傾向、正確に言えば作者が彼らの口に入れた一連の言い条であったらしい。
「お前は悪くない」と彼らは言い続けるんだが、それは違うんじゃないか。
「してはならないことを、お前はしてしまった。それでも俺たちは、どこまでもお前の友達だ」
というのが、ホントじゃないのか。
この一点のこだわりが、どうにも抜けないのである。
そしてそのことは、『頬』の登場人物たちが「相手に赦しを求めながら、自分の罪を直視せず自分を変えようとはしない」こと、その居直りの厚かましさに直結している。
大きな地下の空洞が、地上のそっちとこっちに穴を開いているのだ。
悲しいかな、人は罪を犯さずには生きていけない。
そのことを「悲」とし、あるいは「欠け」として、その克服の道を模索するか、
罪の現実をないもののように水に流して、同じ道をただ歩き続けるか、
ここで人生に向かう態度が截然と分かたれる。
二股道の、あっちとこっちにいるような気がするんだね。
宗教の話をしているのではない、(宗教にも当然かかわってくるだろうが)
少し前の CAT の席で Kokomin さんが憤慨したことだ。
「原発事故の始末もすまないうちに、中東などへの原発輸出を画策できる無神経」の問題は、これと同根だと僕は思う。
いま、福島第一原発ではまさに汚染を「水に流して」いる。
流しても流しても、消えはしない。ただ汚染が拡散していくだけだ。
限局せず、汎化するだけだ。
*****
「水に流す」姿勢は、否認という機制とも深くかかわっている。
朝刊一面は、「首相、再び『汚染水ブロック』 ~ 海へ流出続くなか」
「汚染水は完全にブロックされている」という「認識」のことを言っているのだ。
大本営発表・・・と呟いていたら、朝のラジオ解説者が同じことを言った。
僕らの国の指導層が、問題解決能力以前に問題「認識」能力を喪失しているというのである。
その通りだが、その根が僕ら自身の中にあることこそ不安の源なのだ。
「僕らは悪くない、仕方なかったのだ」
そうだろうか?
今週は火曜日の晩にCATの会、Kokomin さんが主宰者となって、イザベルさん、クチブエ君、勝沼さんらと精神分析などをサカナに歓談・放談。
こういうのは楽しいもので、みんな来ればいいのにな。
余談はさておき、今回は僕自身が140回も面接を続けて行き詰っているケースについて、皆からアドバイスをもらったのだ。
一人だけでやっていると、実に当たり前のことが見えなくなる。恥ずかしさもてんこ盛りながら、コメントしてくれる仲間のありがたさを思う。10年ほど前には僕が教室で教えた面々だが、今や頼もしい同業者である。
上記の行きづまりケースは『柔らかな頬』を読むきっかけになったMさんだったので、なぜMさんがそれほどこの小説に惹かれるのかといったことから、小説談義にもなった。もともと精神分析は芸術鑑賞には必須のツールだし、当然ノリは良いのだ。
今回は勝沼さんが福島の仕事で珍しく欠席。
クチブエ君がPC上で「方言チャート」というのを見せてくれた。
早速やってみたら、僕は「山口県人」ということになったよ(!)
***
会場に向かう電車の中で、ふと思い当たった。
『4TEEN』を面白く読んで、しかし何か違和感を覚えたことについて。
少年たちのひとりが、犯罪にあたる行為を犯してしまう。
「過って」かどうかは微妙なところだが、結果的には取り調べの末、無事に帰される。
他の三人は終始一貫、彼を仲間として支え続け、それが彼を立ち直らせることは、しかあるべし。それでこそ友達だ。
何かトゲのように引っかかっていたのは、彼らの励ましの中に見られるある種の傾向、正確に言えば作者が彼らの口に入れた一連の言い条であったらしい。
「お前は悪くない」と彼らは言い続けるんだが、それは違うんじゃないか。
「してはならないことを、お前はしてしまった。それでも俺たちは、どこまでもお前の友達だ」
というのが、ホントじゃないのか。
この一点のこだわりが、どうにも抜けないのである。
そしてそのことは、『頬』の登場人物たちが「相手に赦しを求めながら、自分の罪を直視せず自分を変えようとはしない」こと、その居直りの厚かましさに直結している。
大きな地下の空洞が、地上のそっちとこっちに穴を開いているのだ。
悲しいかな、人は罪を犯さずには生きていけない。
そのことを「悲」とし、あるいは「欠け」として、その克服の道を模索するか、
罪の現実をないもののように水に流して、同じ道をただ歩き続けるか、
ここで人生に向かう態度が截然と分かたれる。
二股道の、あっちとこっちにいるような気がするんだね。
宗教の話をしているのではない、(宗教にも当然かかわってくるだろうが)
少し前の CAT の席で Kokomin さんが憤慨したことだ。
「原発事故の始末もすまないうちに、中東などへの原発輸出を画策できる無神経」の問題は、これと同根だと僕は思う。
いま、福島第一原発ではまさに汚染を「水に流して」いる。
流しても流しても、消えはしない。ただ汚染が拡散していくだけだ。
限局せず、汎化するだけだ。
*****
「水に流す」姿勢は、否認という機制とも深くかかわっている。
朝刊一面は、「首相、再び『汚染水ブロック』 ~ 海へ流出続くなか」
「汚染水は完全にブロックされている」という「認識」のことを言っているのだ。
大本営発表・・・と呟いていたら、朝のラジオ解説者が同じことを言った。
僕らの国の指導層が、問題解決能力以前に問題「認識」能力を喪失しているというのである。
その通りだが、その根が僕ら自身の中にあることこそ不安の源なのだ。
「僕らは悪くない、仕方なかったのだ」
そうだろうか?