2013年9月6日(金)
街場シリーズなどを麗々しく「読書メモ」に数えたりすると、当の内田樹センセイにカモにされそうだが、読書には違いないのでね。
ブログの軽さで鋭い分析はカッコいいし、こちらが前意識あたりで何となく感じていることを明晰に言語化してくれるアタマの良い人は、いつの時代にもありがたい。何より、内田センセイの所論は実際に役に立つからいいのだ。
これまで個人的にいちばん役に立ったのは、憲法九条と自衛隊の関係を整理してくれたことだったかな
自衛隊は憲法制定とほぼ同時に、憲法と同じくGHQの強い指導のもとに発足した。つまり、この二つの制度は本質的に「兄弟」なのである。
憲法九条と自衛隊が矛盾した存在であるのは、「矛盾していること」こそがそもそものはじめから両者に託された政治的機能だからである。平和憲法と軍隊を「同時に」日本に与えることによって、日本が国際政治的に固有の機能を果たすことをアメリカは期待した。
憲法の制定が1946年、警察予備隊の発足が1950年。憲法に4年の時間的アドバンテージがあるために現在の論争の構造が定着しているが、もしこの順番が逆だったら、かえって憲法九条の意味ははっきりしたはずである。憲法九条を空洞化するために自衛隊が作られたというよりは、自衛隊を規制するために憲法九条が効果的に機能しているという構図が見えるはずである。憲法九条と自衛隊は相互に排除し合っているのではなく、いわば相補的に支え合っている。
「憲法九条と自衛隊」この「双子的制度」は、アメリカのイニシアティヴのもとに戦後日本社会が狡知をこらして作り上げた「歴史上もっとも巧妙な政治的妥協」の一つである。
これは、ほんとにほんとに助かりましたよ。
前に書いた「二枚舌外交のススメ」というのは、この御高説の延長上に考えたものだ。
さて、『メディア論』である。
これはもう能書きは省略して「抜き書き」(+コメント)だけにしておこう。
*****
【第1講 キャリアは他人のためのもの】
天才でさえ勘違いするんですから、われわれ凡人が「ほんとうにしたいこと」や「自分の天職」で勘違いすることはまず不可避である。そんな「内面の声」に耳を傾ける暇があったら、まわりの人からの「これ、やって」というリクエストににこやかに応じたほうがいい。たいていの場合、自分の能力適性についての自己評価よりは、まわりの人の外部評価の方が正確なんです。「これ、やって」というのは、「あなたの例外的な潜在能力はこの分野で発揮される」という先行判断を含意しています。そういう言葉には素直に従ったほうがよい。(P.27)
(なるほどなぁ・・・ただ、これとは逆に自己評価に固執して道を拓いた人もあるにはある。「詩人になれないなら、何ものにもなりたくない」とガンバッたヘッセとかね。ボクサーのモハメド・アリ(カシアス・クレイ)がボクシングを始めた時は、本人以外の誰一人として彼にボクシングの才能があるとは考えなかったそうな。どちらも天才か、ちぇっ。ちなみに内田センセイの挙げる「勘違いしていた天才」は、コナン・ドイルとアイザック・ニュートンだ。)
平たく言えば、「世のため、人のため」に仕事をするとどんどん才能が開花し、「自分ひとりのため」に仕事をしていると、あまりぱっとしたことは起こらない。(P.29)
(ごもっともですが、内田センセイ御自身は「世のため、人のため」に仕事をして才能を開花させたの?ほんと?)
・・・召喚されたという事実が人間を覚醒に導く・・・宗教の用語ではこれを「召命」(vocation)と言います。神に呼ばれて、ある責務を与えられることです。でも、英語の vocation にはもう一つ世俗的な意味もあります。それは「天職」です。calling という言葉もあります。これも原義は「神に呼ばれること」です・・・
「天職」というのは就職情報産業の適性検査で見つけるものではありません。他者に呼ばれることなんです。中教審が言うように「自己決定」するものではない。「他者に呼び寄せられること」なんです。自分が果たすべき仕事を見出すというのは本質的に受動的な体験なんです。そのことを最初にお覚え願いたいと思います。(P.30-31)
【第2講 マスメディアの嘘と演技】
新聞が立場上、テレビの問題を俎上に載せにくいことは僕にもわかります。でも、「うまく俎上に載せられない」ことと、「そんな問題はないかのようにふるまう」のは別のことです。前者は単なる知性の不調ですが、後者はおのれの知的不調を隠蔽することです。フェイクが一つ入っている。知的な不調からは(きっかけがあれば)回復可能ですが、知的不調を隠蔽する人間は、そこから回復できない。(P.53-54)
(新聞が)それ以上に「たちが悪い」と思ったのは、この「知っているくせに知らないふりをして、イノセントに驚愕してみせる」ということそれ自体が、きわめてテレビ的な手法だったということです。(P.56)
【第3講 メディアと「クレイマー」】
給食のときに「いただきます」と言うことに抗議した親がいたそうです。自分は給食費を払っている。誰にも負債はない。なのに、どうして「いただきます」と礼を言わなければならないのか、という理屈でした。(P.70)
(この後、内田センセイは「給食」を成立させた先人の努力に対する無知を指摘するのだが、僕はこの親が「いただきます」を給食費の受け取り手に対する「お礼の言葉」と理解しているらしいことのほうに興味を引かれた。何にしても、ですが。)
「そういうもの」はそこにあって当然であると考える人たちが出てきた。「そういうもの」が存在し続けるためには、自分がその身銭を切って、自分の「持ち出し」で市民としての「割り当て」分の努力をしなければならないということをわかてちない人たちが出てきた。それが「クレイマー」になった。
彼らのような未熟な市民たちが大量に生み出されたことによって、日本の市民社会のインフラの一部は短期間に急速に劣化しました。特に医療と教育がそうです。どちらも制度的な崩壊の寸前まで来ています。(P.71)
(医療と教育・・・しぇ~、こら大変だ!)
【第4講 「正義」の暴走】
僕はそれ(ネット上に匿名の口汚い罵倒が氾濫すること)はたいへん危険なことだと思います。攻撃的な言葉が標的にされた人を傷つけるからだけではなく、そのような言葉は発信している人自身を損なうからです。だって、その人は「私が存在しなくたって誰も困らない」ということを堂々と公言しているからです。「私は個体識別できない人間であり、いくらでも代替者がいる人間である」というのは「だから、私は存在する必要のない人間である」という結論をコロラリーとして導いてしまう。
そのような名乗りを繰り返しているうちに、その「呪い」は弱い酸のようにその発信者の存在根拠を溶かしてゆきます。自分に向けた「呪い」の毒性を現代人はあまりに軽んじていますけれど、そのような呪詛を自分に向けているうちに、人間の生命力は確実に衰微してゆくのです。「呪い」の力を侮ってはいけません。(P.96)
【第5講 メディアと「変えないほうがよいもの」】
さしあたり、「市場経済が始まるより前から存在したもの」は商取引のスキームにはなじまない。(P.107)
(強く同感し、かつ付記したいことがあるが、稿を改める。)
一流大学を出たはずの若いサラリーマンと話したときに、彼があまりに無知なので、「いったい君は大学で何を勉強していたのだ?」と訊いたことがありました。すると彼はなんと「何も!」と胸を張って答えたのです。思いがけない答えに一度はびっくりした後に、僕はなるほどと理解しました。彼にとっては、一流大学を出ているにもかかわらず無知であることは少しも「恥ずかしいこと」ではなく、無知であるにもかかわらず一流大学を出たことこそが「誇るべきこと」だったのでした。「にもかかわらず」の前後に置くべき言葉の順序を、僕のほうが間違えていたのです。それは彼にとっては「誇るべき達成」だったのです。彼の笑顔はわずかな手銭で驚くほど高級な商品を買って見せた「買い物上手」の自慢顔だったのでした。(P.121)
(「あ!」と声が出ました。最初は意味が解らず、それから「なるほど」と理解した次第。)
【第6講 読者はどこにいるか】
中国のような海賊版の横行する国と、アメリカのようなコピーライトが株券のように取引される国は、著作権についてまったく反対の構えを取っているように見えますけれど、どちらもオリジネイターに対する「ありがとう」というイノセントな感謝の言葉を忘れている点では相似的です。(P.147)
自分から見て自分がどういう人間に思われたいか、それこそが実は僕たちの最大の関心事なんです。(P.151-2)
今ここにある欠如を満たすために本を選ぶわけではありません。まだここにない欠如を基準に本を選ぶのです。(P.163)
【第7講 贈与経済と読書】
⇒ この講は全体を抜き書きしないといけなくなる。たいへん啓発的で面白い。僕もレヴィ=ストロースは少しは読んだが、こういうことを学びはしなかった。
一カ所だけ:
端的に言えば、何かを見たとき、根拠もなしに「これは私宛ての贈り物だ」と宣言できる能力のことを「人間性」と呼んでもいいと僕は思います。
(感謝する能力の有無と多寡が予後を分けるという臨床経験と、これは一脈通じていそうだ。次に記す最後の抜き書き箇所とも通じる。)
【第8講 わけのわからない未来へ】
これまで繰り返し書いてきたように、どのような事態も、それを「贈り物」だと考える人間の前では脅威的なものにはなりえません。みずからを被贈与者であると思いなす人間の前では、どのような「わけのわからない状況」も、そこから最大限の「価値」を引き出そうとする人間的努力を起動することができるからです。
(ヴィクトール・フランクルがアウシュヴィッツを生き延びたのは、まさにこのような資質に依ってではなかったか。)
街場シリーズなどを麗々しく「読書メモ」に数えたりすると、当の内田樹センセイにカモにされそうだが、読書には違いないのでね。
ブログの軽さで鋭い分析はカッコいいし、こちらが前意識あたりで何となく感じていることを明晰に言語化してくれるアタマの良い人は、いつの時代にもありがたい。何より、内田センセイの所論は実際に役に立つからいいのだ。
これまで個人的にいちばん役に立ったのは、憲法九条と自衛隊の関係を整理してくれたことだったかな
自衛隊は憲法制定とほぼ同時に、憲法と同じくGHQの強い指導のもとに発足した。つまり、この二つの制度は本質的に「兄弟」なのである。
憲法九条と自衛隊が矛盾した存在であるのは、「矛盾していること」こそがそもそものはじめから両者に託された政治的機能だからである。平和憲法と軍隊を「同時に」日本に与えることによって、日本が国際政治的に固有の機能を果たすことをアメリカは期待した。
憲法の制定が1946年、警察予備隊の発足が1950年。憲法に4年の時間的アドバンテージがあるために現在の論争の構造が定着しているが、もしこの順番が逆だったら、かえって憲法九条の意味ははっきりしたはずである。憲法九条を空洞化するために自衛隊が作られたというよりは、自衛隊を規制するために憲法九条が効果的に機能しているという構図が見えるはずである。憲法九条と自衛隊は相互に排除し合っているのではなく、いわば相補的に支え合っている。
「憲法九条と自衛隊」この「双子的制度」は、アメリカのイニシアティヴのもとに戦後日本社会が狡知をこらして作り上げた「歴史上もっとも巧妙な政治的妥協」の一つである。
『「おじさん」的思考』
これは、ほんとにほんとに助かりましたよ。
前に書いた「二枚舌外交のススメ」というのは、この御高説の延長上に考えたものだ。
さて、『メディア論』である。
これはもう能書きは省略して「抜き書き」(+コメント)だけにしておこう。
*****
【第1講 キャリアは他人のためのもの】
天才でさえ勘違いするんですから、われわれ凡人が「ほんとうにしたいこと」や「自分の天職」で勘違いすることはまず不可避である。そんな「内面の声」に耳を傾ける暇があったら、まわりの人からの「これ、やって」というリクエストににこやかに応じたほうがいい。たいていの場合、自分の能力適性についての自己評価よりは、まわりの人の外部評価の方が正確なんです。「これ、やって」というのは、「あなたの例外的な潜在能力はこの分野で発揮される」という先行判断を含意しています。そういう言葉には素直に従ったほうがよい。(P.27)
(なるほどなぁ・・・ただ、これとは逆に自己評価に固執して道を拓いた人もあるにはある。「詩人になれないなら、何ものにもなりたくない」とガンバッたヘッセとかね。ボクサーのモハメド・アリ(カシアス・クレイ)がボクシングを始めた時は、本人以外の誰一人として彼にボクシングの才能があるとは考えなかったそうな。どちらも天才か、ちぇっ。ちなみに内田センセイの挙げる「勘違いしていた天才」は、コナン・ドイルとアイザック・ニュートンだ。)
平たく言えば、「世のため、人のため」に仕事をするとどんどん才能が開花し、「自分ひとりのため」に仕事をしていると、あまりぱっとしたことは起こらない。(P.29)
(ごもっともですが、内田センセイ御自身は「世のため、人のため」に仕事をして才能を開花させたの?ほんと?)
・・・召喚されたという事実が人間を覚醒に導く・・・宗教の用語ではこれを「召命」(vocation)と言います。神に呼ばれて、ある責務を与えられることです。でも、英語の vocation にはもう一つ世俗的な意味もあります。それは「天職」です。calling という言葉もあります。これも原義は「神に呼ばれること」です・・・
「天職」というのは就職情報産業の適性検査で見つけるものではありません。他者に呼ばれることなんです。中教審が言うように「自己決定」するものではない。「他者に呼び寄せられること」なんです。自分が果たすべき仕事を見出すというのは本質的に受動的な体験なんです。そのことを最初にお覚え願いたいと思います。(P.30-31)
【第2講 マスメディアの嘘と演技】
新聞が立場上、テレビの問題を俎上に載せにくいことは僕にもわかります。でも、「うまく俎上に載せられない」ことと、「そんな問題はないかのようにふるまう」のは別のことです。前者は単なる知性の不調ですが、後者はおのれの知的不調を隠蔽することです。フェイクが一つ入っている。知的な不調からは(きっかけがあれば)回復可能ですが、知的不調を隠蔽する人間は、そこから回復できない。(P.53-54)
(新聞が)それ以上に「たちが悪い」と思ったのは、この「知っているくせに知らないふりをして、イノセントに驚愕してみせる」ということそれ自体が、きわめてテレビ的な手法だったということです。(P.56)
【第3講 メディアと「クレイマー」】
給食のときに「いただきます」と言うことに抗議した親がいたそうです。自分は給食費を払っている。誰にも負債はない。なのに、どうして「いただきます」と礼を言わなければならないのか、という理屈でした。(P.70)
(この後、内田センセイは「給食」を成立させた先人の努力に対する無知を指摘するのだが、僕はこの親が「いただきます」を給食費の受け取り手に対する「お礼の言葉」と理解しているらしいことのほうに興味を引かれた。何にしても、ですが。)
「そういうもの」はそこにあって当然であると考える人たちが出てきた。「そういうもの」が存在し続けるためには、自分がその身銭を切って、自分の「持ち出し」で市民としての「割り当て」分の努力をしなければならないということをわかてちない人たちが出てきた。それが「クレイマー」になった。
彼らのような未熟な市民たちが大量に生み出されたことによって、日本の市民社会のインフラの一部は短期間に急速に劣化しました。特に医療と教育がそうです。どちらも制度的な崩壊の寸前まで来ています。(P.71)
(医療と教育・・・しぇ~、こら大変だ!)
【第4講 「正義」の暴走】
僕はそれ(ネット上に匿名の口汚い罵倒が氾濫すること)はたいへん危険なことだと思います。攻撃的な言葉が標的にされた人を傷つけるからだけではなく、そのような言葉は発信している人自身を損なうからです。だって、その人は「私が存在しなくたって誰も困らない」ということを堂々と公言しているからです。「私は個体識別できない人間であり、いくらでも代替者がいる人間である」というのは「だから、私は存在する必要のない人間である」という結論をコロラリーとして導いてしまう。
そのような名乗りを繰り返しているうちに、その「呪い」は弱い酸のようにその発信者の存在根拠を溶かしてゆきます。自分に向けた「呪い」の毒性を現代人はあまりに軽んじていますけれど、そのような呪詛を自分に向けているうちに、人間の生命力は確実に衰微してゆくのです。「呪い」の力を侮ってはいけません。(P.96)
【第5講 メディアと「変えないほうがよいもの」】
さしあたり、「市場経済が始まるより前から存在したもの」は商取引のスキームにはなじまない。(P.107)
(強く同感し、かつ付記したいことがあるが、稿を改める。)
一流大学を出たはずの若いサラリーマンと話したときに、彼があまりに無知なので、「いったい君は大学で何を勉強していたのだ?」と訊いたことがありました。すると彼はなんと「何も!」と胸を張って答えたのです。思いがけない答えに一度はびっくりした後に、僕はなるほどと理解しました。彼にとっては、一流大学を出ているにもかかわらず無知であることは少しも「恥ずかしいこと」ではなく、無知であるにもかかわらず一流大学を出たことこそが「誇るべきこと」だったのでした。「にもかかわらず」の前後に置くべき言葉の順序を、僕のほうが間違えていたのです。それは彼にとっては「誇るべき達成」だったのです。彼の笑顔はわずかな手銭で驚くほど高級な商品を買って見せた「買い物上手」の自慢顔だったのでした。(P.121)
(「あ!」と声が出ました。最初は意味が解らず、それから「なるほど」と理解した次第。)
【第6講 読者はどこにいるか】
中国のような海賊版の横行する国と、アメリカのようなコピーライトが株券のように取引される国は、著作権についてまったく反対の構えを取っているように見えますけれど、どちらもオリジネイターに対する「ありがとう」というイノセントな感謝の言葉を忘れている点では相似的です。(P.147)
自分から見て自分がどういう人間に思われたいか、それこそが実は僕たちの最大の関心事なんです。(P.151-2)
今ここにある欠如を満たすために本を選ぶわけではありません。まだここにない欠如を基準に本を選ぶのです。(P.163)
【第7講 贈与経済と読書】
⇒ この講は全体を抜き書きしないといけなくなる。たいへん啓発的で面白い。僕もレヴィ=ストロースは少しは読んだが、こういうことを学びはしなかった。
一カ所だけ:
端的に言えば、何かを見たとき、根拠もなしに「これは私宛ての贈り物だ」と宣言できる能力のことを「人間性」と呼んでもいいと僕は思います。
(感謝する能力の有無と多寡が予後を分けるという臨床経験と、これは一脈通じていそうだ。次に記す最後の抜き書き箇所とも通じる。)
【第8講 わけのわからない未来へ】
これまで繰り返し書いてきたように、どのような事態も、それを「贈り物」だと考える人間の前では脅威的なものにはなりえません。みずからを被贈与者であると思いなす人間の前では、どのような「わけのわからない状況」も、そこから最大限の「価値」を引き出そうとする人間的努力を起動することができるからです。
(ヴィクトール・フランクルがアウシュヴィッツを生き延びたのは、まさにこのような資質に依ってではなかったか。)
以上