2013年9月19日(金)
診療に出かけるついでにカバンに入れていき、帰宅するまでに読み終わったというのは、どういう読み方をしたんだろう?診療もきちんとしたはずなんだけど。
それより、こいつの読書傾向はどうなってるんだと思われそうだ。
いえ、猟奇的な人格に変わっちゃったわけではないのですよ、決して。
しかし何といったらいいのかな、この人の筆力はなかなかすごい。
面白いのは個々の登場人物の身体的特徴の描写が極端に少ないことで、その意味で人物はほとんど記号と化している。その方が具合がいいこともあろう。
印象に残った言葉を、先に拾っていってしまおう。
第一章『聖職者』
高校は辞めたくなれば辞めればいいのですから。逃げ場のない現場にいる子供たちに関わっていきたい、そんな志を持っていました。私にも熱い時代があったのです。/田中さん、小川くん、そこ、笑うところじゃないですから。(P.12)
彼は愛美の遺体を抱きしめ、愛美が死んでしまったのは過去に犯した罪のせいだと自分を激しく責めながら一晩中泣いていました。(P.17)
※ これは明らかに不合理な関係づけだが、家族を不幸な形で亡くした人間の大多数が現実に感じることで、その意味で陳腐なぐらいリアルである。前に読書メモでなぞった作品の一、二では、このあたりまえのリアルさが希薄なのを奇妙に感じたのだ。
「この子はやればできるんです」と保護者の方からよく言われるのですが、この子、の大半はこの分岐点で下降線をたどることになった人たちです。「やればできる」のではなく、「やることができない」のです。(P.51)
第二章『殉教者』
やはり、どんな残忍な犯罪者に対しても、裁判は必要なのではないか、と思うのです。それは決して、犯罪者のためにではありません。裁判は、世の中の凡人を勘違いさせ、暴走させるのをくい止めるために必要だと思うのです。(P.85)
第三章『慈愛者』
「人間の脳は何でもがんばって覚えておこうと努力するようにできているけれど、何かに書き残せば、もう覚える必要はないのだと、安心して忘れることができるから。楽しいことは頭に残して、つらいことは書いて忘れなさい。」(P.125)
第五章『信奉者』
殺人が犯罪であることは理解できる。しかし、悪であることは理解できない。人間は地球上に限りなく存在する物体の一つにすぎない。何らかの利益を得るための手段が、ある物体の消滅であるならば、それは致し方ないことではないだろうか。(P.233)
殺人は悪である、と本能で感じる人などいるのだろうか。信仰心の薄いこの国の人たちの大半は、物心つき始めたころからの学習により、そう思い込まされているだけではないのか。(P.233-4)
※ ラスコーリニコフが懸命に信じているフリをしたことを、少年(たち)は初めから当然のこととして疑わない。
父親と三人でカラオケやボウリングに行ったこともある。徐々に自分が馬鹿になっていくような気がしたが、馬鹿は意外と心地よく、このまま馬鹿一家の一員になってもいいと思うくらいだった。
再婚から半年後、美由紀さんは妊娠した。馬鹿と馬鹿の子供だから、馬鹿が生まれる確率は百パーセントだが、半分は自分とも血がつながっているわけだから、どんな子供が生まれるのか楽しみでもあった。この頃には、自分はすっかり馬鹿一家の一員だと思い込んでいた。しかし、そう思っていたのは自分だけだったのだ。(P.242)
※ 「そう思っていた「馬鹿」は」と付け足しても良いのだろう。「馬鹿」という言葉はともかく、このあたりは「家族」の本質と危うさについて、思いがけぬ深みに焦点を結んでいる。
立派なことで新聞に名を載せても、母親は気付いてくれない。もしも、もしも、自分が犯罪者になれば、母親は駆けつけてくれるだろうか。(P.250)
こいつを殺してやろうか、と思った。殺意とは一定の距離が必要な人間が、その境界線を踏み越えてきたときに生じるものなのだと、初めて気付いた。(P.256)
だが、命は泡よりも軽くても、死体は鉄のかたまりより重く、学校まで運んでやることは、あきらめた。(P.277)
第六章『伝道者』
すべてを水に流せるという復讐などありえないのだ、と気付きました。(P.290)
愛美のときだってそうです。あなたの気持ちは母親だけにしか向いていないのに、被害を被るのはいつも、母親以外の人物です。(P.298)
***
オチはすさまじく見事だし、登場人物たちの内言が順繰りに語られるにつれ、全容がほどけていく構成も達者なものである。中島哲也監督が松たか子を起用して映画化したのか、それがツタヤに山積みだったんだな。
悪性の母子固着が至るところを埋め、それは裏返しの虐待と等価だから、再反転してダイレクトな虐待が出てくるのも不思議なはい。それが全編のモチーフとすら思えるぐらいだ。
そして、遡ればそこに由来するのであろう、恨みの深さ、復讐の執拗さ。
もちろん読後感の爽やかなはずがなく、ただ、想像を超えて過激なオチがある種の風穴を穿つのだが、それは主人公の生き地獄の始まりに他ならないわけで・・・
あ~あ、もういいや。
Amazon のレビュアーたちがけっこう本気になっているのが、作品の話題性をよく表している。皆さんごもっともだから、それに譲ろう。
「この登場人物たちは最初から最後まで自分たちの犯したそれぞれの罪に対する『反省』ということを一切していません。」(Lotus Sumner 氏)
「本当に面白い小説ですが、人間の負の側面だけを見ており、ただのひとつも愛情や思いやりは見当たりません。そういう意味では本作が「本屋大賞」であることがうすら寒く、★3つにとどめます。」(黒連星氏)
うん、そうだよね、だけど湊かなえだけではないよね、それどころか。
昨夜は『半沢直樹』の最終回、これまで一度も見てなかったのをダイジェストで補って、しっかり視聴率アップに貢献した。(40%超だって?!)
正直なところひどく後味が悪かったのは、大和田は降格どまり、半沢は出向という結末のせいではなく、基本的に『告白』と同じ理由からだ。愛妻や友人の「愛情や思いやり」によって薄められてはいるが、ここでもやっぱり誰も「反省」はせず、半沢の「倍返し」で屈服を強いられるだけだ。
衆人環視の中で土下座させられる苦渋の中、大和田は内心で「10倍返し」の誓いを立てるに決まっている。救いも何もありはしない。
「この恨み、晴らさでおくべきや」
今やそれが僕らの最大の関心事であるらしい。しかし『告白』の登場人物が言うとおり、「すべてを水に流せるという復讐などありえない」のである。
何度でも繰り返しておこう。
「反省」とは「悔い改め μετανοια」のことだ。内なる「罪」に直面しない限り、ぴくりとさえ起動しない。
診療に出かけるついでにカバンに入れていき、帰宅するまでに読み終わったというのは、どういう読み方をしたんだろう?診療もきちんとしたはずなんだけど。
それより、こいつの読書傾向はどうなってるんだと思われそうだ。
いえ、猟奇的な人格に変わっちゃったわけではないのですよ、決して。
しかし何といったらいいのかな、この人の筆力はなかなかすごい。
面白いのは個々の登場人物の身体的特徴の描写が極端に少ないことで、その意味で人物はほとんど記号と化している。その方が具合がいいこともあろう。
印象に残った言葉を、先に拾っていってしまおう。
第一章『聖職者』
高校は辞めたくなれば辞めればいいのですから。逃げ場のない現場にいる子供たちに関わっていきたい、そんな志を持っていました。私にも熱い時代があったのです。/田中さん、小川くん、そこ、笑うところじゃないですから。(P.12)
彼は愛美の遺体を抱きしめ、愛美が死んでしまったのは過去に犯した罪のせいだと自分を激しく責めながら一晩中泣いていました。(P.17)
※ これは明らかに不合理な関係づけだが、家族を不幸な形で亡くした人間の大多数が現実に感じることで、その意味で陳腐なぐらいリアルである。前に読書メモでなぞった作品の一、二では、このあたりまえのリアルさが希薄なのを奇妙に感じたのだ。
「この子はやればできるんです」と保護者の方からよく言われるのですが、この子、の大半はこの分岐点で下降線をたどることになった人たちです。「やればできる」のではなく、「やることができない」のです。(P.51)
第二章『殉教者』
やはり、どんな残忍な犯罪者に対しても、裁判は必要なのではないか、と思うのです。それは決して、犯罪者のためにではありません。裁判は、世の中の凡人を勘違いさせ、暴走させるのをくい止めるために必要だと思うのです。(P.85)
第三章『慈愛者』
「人間の脳は何でもがんばって覚えておこうと努力するようにできているけれど、何かに書き残せば、もう覚える必要はないのだと、安心して忘れることができるから。楽しいことは頭に残して、つらいことは書いて忘れなさい。」(P.125)
第五章『信奉者』
殺人が犯罪であることは理解できる。しかし、悪であることは理解できない。人間は地球上に限りなく存在する物体の一つにすぎない。何らかの利益を得るための手段が、ある物体の消滅であるならば、それは致し方ないことではないだろうか。(P.233)
殺人は悪である、と本能で感じる人などいるのだろうか。信仰心の薄いこの国の人たちの大半は、物心つき始めたころからの学習により、そう思い込まされているだけではないのか。(P.233-4)
※ ラスコーリニコフが懸命に信じているフリをしたことを、少年(たち)は初めから当然のこととして疑わない。
父親と三人でカラオケやボウリングに行ったこともある。徐々に自分が馬鹿になっていくような気がしたが、馬鹿は意外と心地よく、このまま馬鹿一家の一員になってもいいと思うくらいだった。
再婚から半年後、美由紀さんは妊娠した。馬鹿と馬鹿の子供だから、馬鹿が生まれる確率は百パーセントだが、半分は自分とも血がつながっているわけだから、どんな子供が生まれるのか楽しみでもあった。この頃には、自分はすっかり馬鹿一家の一員だと思い込んでいた。しかし、そう思っていたのは自分だけだったのだ。(P.242)
※ 「そう思っていた「馬鹿」は」と付け足しても良いのだろう。「馬鹿」という言葉はともかく、このあたりは「家族」の本質と危うさについて、思いがけぬ深みに焦点を結んでいる。
立派なことで新聞に名を載せても、母親は気付いてくれない。もしも、もしも、自分が犯罪者になれば、母親は駆けつけてくれるだろうか。(P.250)
こいつを殺してやろうか、と思った。殺意とは一定の距離が必要な人間が、その境界線を踏み越えてきたときに生じるものなのだと、初めて気付いた。(P.256)
だが、命は泡よりも軽くても、死体は鉄のかたまりより重く、学校まで運んでやることは、あきらめた。(P.277)
第六章『伝道者』
すべてを水に流せるという復讐などありえないのだ、と気付きました。(P.290)
愛美のときだってそうです。あなたの気持ちは母親だけにしか向いていないのに、被害を被るのはいつも、母親以外の人物です。(P.298)
***
オチはすさまじく見事だし、登場人物たちの内言が順繰りに語られるにつれ、全容がほどけていく構成も達者なものである。中島哲也監督が松たか子を起用して映画化したのか、それがツタヤに山積みだったんだな。
悪性の母子固着が至るところを埋め、それは裏返しの虐待と等価だから、再反転してダイレクトな虐待が出てくるのも不思議なはい。それが全編のモチーフとすら思えるぐらいだ。
そして、遡ればそこに由来するのであろう、恨みの深さ、復讐の執拗さ。
もちろん読後感の爽やかなはずがなく、ただ、想像を超えて過激なオチがある種の風穴を穿つのだが、それは主人公の生き地獄の始まりに他ならないわけで・・・
あ~あ、もういいや。
Amazon のレビュアーたちがけっこう本気になっているのが、作品の話題性をよく表している。皆さんごもっともだから、それに譲ろう。
「この登場人物たちは最初から最後まで自分たちの犯したそれぞれの罪に対する『反省』ということを一切していません。」(Lotus Sumner 氏)
「本当に面白い小説ですが、人間の負の側面だけを見ており、ただのひとつも愛情や思いやりは見当たりません。そういう意味では本作が「本屋大賞」であることがうすら寒く、★3つにとどめます。」(黒連星氏)
うん、そうだよね、だけど湊かなえだけではないよね、それどころか。
昨夜は『半沢直樹』の最終回、これまで一度も見てなかったのをダイジェストで補って、しっかり視聴率アップに貢献した。(40%超だって?!)
正直なところひどく後味が悪かったのは、大和田は降格どまり、半沢は出向という結末のせいではなく、基本的に『告白』と同じ理由からだ。愛妻や友人の「愛情や思いやり」によって薄められてはいるが、ここでもやっぱり誰も「反省」はせず、半沢の「倍返し」で屈服を強いられるだけだ。
衆人環視の中で土下座させられる苦渋の中、大和田は内心で「10倍返し」の誓いを立てるに決まっている。救いも何もありはしない。
「この恨み、晴らさでおくべきや」
今やそれが僕らの最大の関心事であるらしい。しかし『告白』の登場人物が言うとおり、「すべてを水に流せるという復讐などありえない」のである。
何度でも繰り返しておこう。
「反省」とは「悔い改め μετανοια」のことだ。内なる「罪」に直面しない限り、ぴくりとさえ起動しない。