散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ローランサン風

2013-09-29 16:25:56 | 日記
清々しい秋、清々しい朝、少しは快いことを語ろう。
うっかり立ち入ったインターネットサイトで見た、胸の悪くなる画像を払拭したいし。

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K子さんと47年ぶりに再会のことを書いたが、こちらは40年かけてなお未完。
進行中の想い出話である。

両親とともに現住所に移ったのは、今からちょうど40年前。
オイルショックが日本の経済に急ブレーキをかけた年でもあるが、それは高校生には頭上50㎝、右後方40㎝ぐらいの話で。

目黒に有名人が多いとか、いつから始まったんだろう?
「サンマ」の連想もあり、世田谷あたりと変わらぬ田園地帯で世田谷ほど大きくもなく、だいいち「目黒」という響きが泥臭くて好ましいと思っていた。
引っ越してくる前も目黒区内だったが、「元競馬場前」とか「油面(あぶらめん)」とか、地名がいちいちいわくありげで面白い。もともとこの一帯は将軍家の鷹野の場所だったわけで、「駒繋(こまつなぎ)」「駒場」「鷹番」といった地名がその由来を残している。
「サンマ」の話も鷹狩で空腹になった殿さまが主人公なんだからね。

うちのあたりはK大の広い敷地に隣接するおかげで緑が多く、なんて書くと優雅なようだが、1970年代にはまだそこらにネギ畑が残っていた。
この地域の平地を生み出した呑川が暗渠に封じ込められる直前で、かつての清流は見るかげなく気息奄々の体ながら、まだ水音を聞かせていたっけ。

そんな舞台に、ある日ヒロインが現われる。
残暑の午後、おおかた学期初めの早帰りの途上。
ネギ畑や町工場に挟まれた田舎びた道、家まであと5分ほどのところを歩いていて、ふと目を挙げると50mほど前をゆく花やかなシルエット。
長身の若い女性、ブラウス姿にふうわりとしたスカートの裾を軽くひるがえし、何より幅広の麦わら帽子が涼やかである。
何色かははっきり覚えないが、何しろパステルカラーのくっきりした印象が、シルエットとあわせて洋風の花の印象を残した。

モネの「日傘の女」にかなり近いのだけれど、もう少しだけ輪郭がはっきりしており、堂々たる女性の代わりに少女のうら若さであるところが違っている。
ローランサンの絵のような、と柄にもなく思ったものだ。
ローランサンの絵をまじまじと眺めたことなど、ついぞ覚えがないけれども。

5分の道のり、お嬢さんは先を歩き続けた。
僕は当時から歩くのが速かったから、距離が縮まらないことも驚きだった。
急ぐとも見えないが、長いストライドですいすい進むのだろう、ひょっとして宙に浮いているかと疑ったが、確かに地面を踏んでいる靴の色が、また鮮やかだったのである。

うちのマンションの前を通り過ぎ、僕がマンションに入るとほぼ同時に、50m向こうの一軒家に入って行った。その後、この一軒家に内心のハイライトが向いたことは言うまでもない。

***

ある日このお姉さんと言葉を交わして・・・ということだと面白いんだけどね。
そっち系ではなくて。

「お姉さん」と書いたが、もちろん実年齢などわからないし、実は同い年かもしれないのだ。
自分の周りには、あの日あの時間帯にローランサン風のいでたちで出歩く女性がいなかったから、大学生か家事手伝いと決め込んでいただけで、そうとしたところで何歳も違わない理屈である。目だつ人なので、見かければ必ず「あ、いた」と注意が向く、その装いがいつも印象派的に色合い美しく、ローランサン風におめかし麗しい。長いストライドですいすいと歩み去っていく。

基本的に閑静な住宅街で、こちらは新しく建ったマンションに越してきた新参者だが、この家は昔から居ついていた人々の住む一帯にあり、そのまま今でもそこにある。
その後、改築したものの、不思議に人の出入りがないようだ。
「お姉さん」もお嫁に行ったふうがなく、かといってお婿さんを迎えた様子でもない。
あまり似ていない他の女性家族たちと、静かに暮らしているらしい。

***

この八月の蒸し暑い朝、近くのポストまで郵便を出しに行った。
早くも滲んでくる汗を感じながら坂を降り切った時、目の前を若草色が通り過ぎた。
白いスラックスの長い脚がみるみる遠ざかる。朝のテーブルに足りない牛乳かヨーグルトが、揺れるポリ袋の端から覗いている。
サマーセーターと軽くてフラットな靴が、そろいの鮮やかな若草色、はっと頭が目覚めた。
お変わりないようですね。


花まる先生/転移

2013-09-29 06:24:56 | 日記
2013年9月29日(日)

眠い目で開く朝刊37面(教育)、けさの「花まる先生」は

江戸川区新堀小学校、石川大輔さん(35)・・・え?石川先生じゃん!

黒板の前で眼を丸くして児童に語りかける、写真の姿も間違いない。
数年前まで目黒区N小学校にいらした、算数得意の石川先生だ。
遠見にも目立つ190㎝近い長身、長男も次男も優しそうなのっぽ先生が大好きだった。

当時新任でいらしたが、経験を積んで今や少壮、働き盛りだね。
「割った余りで順番ピタリ」
「ネコは4の倍数?じゃ、余りは?」
何だろう、夢中で記事を追っていたらラジオ体操の時間が過ぎてしまった。

偉いぞ、先生ガンバレ!
http://www.asahi.com/edu/student/teacher/ (早く動画がアップされないかな・・・)

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>  以前に先生に、相手に自分の家族などを重ねる広義の転移が映画の中で行われている例としてこの「12人の怒れる男」の話をしたと思うのですが、覚えておいででしょうか?

ご、ごめんなさい、勝沼さん。そういえばそういうことがありました。
というか、そんな刺激があったからこの時に見てみたくなったのでしょう。

転移、そうですね、「他に向けるべき感情を別の人間に投げかける」ことが転移だとすれば、最後まで有罪を主張する男性の息子に対するコンプレックス(父に対するコンプレックスでもありました)は、転移の好例でした。自覚されない転移の恐ろしさの好例と言ってもよかったでしょう。

> 裁判を終えて部屋を出た二人の陪審員がお互いの名前を名乗り自己紹介をする。自分をさらけ出して議論を戦わせた人達がお互いの名前さえ知らなかったというラストが印象に残りました。

同感です。
そして自己紹介して握手を交わすと、そのままそれぞれの方角へ歩き去ったのでしたね。

「お互いの名前さえ知らない状況で自分をさらけ出す」という設定は、alcoholics anonymous(匿名断酒会)を想起させます。
そんなことあるのかと言われそうですが、アメリカの社会では日常的にあることでしょう。そして陪審員のひとり、ドイツ系移民と思われる時計修理工が誇らしく語る通り、ここにアメリカの力の源があるように思います。植民者たちは、そのようにしてゼロから社会を作りだしてきたのですから。
アメリカ嫌いの石丸ですけれど、これには素直に脱帽します。
名まえや背景に依らず、言語化された主張そのものをぶつけ合うことの素晴らしさです。

>  実はこの映画のパロディが日本でつくられているのはご存知でしょうか?タイトルは「12人の優しい日本人」。監督はあの三谷幸喜です。原作よりも議論下手で何となくあいまいでフィーリングとか言い出したりと、日本人っぽさが出ていて原作に匹敵するすばらしい映画です(レビューにはネタバレが含まれています)。
http://booklog.jp/users/you321/archives/1/B006OSR4AG
 先生の記事を読んで思ったのですが、「12人の優しい日本人」は原作に比べてタイトルどおり優しくてちょっと暖かい感じになっていて、そこに裁ききれないならば裁ききれなくていいんじゃないかというメッセージもあるように思いました。裁ききれないことを覚悟して裁くということかもしれません。
 裁判員に当選した人はこの二本の映画を見て臨んでほしいです。

僕ら全員、潜在的には当選の可能性があるわけですからね。
「三谷幸喜?やめときます」とは言いません、近々ぜひ見てみます。

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電車内「携帯オフ」再検討も、とYAHOOトピックスの見出し。
再検討って、「あらためてオフを推進する」という意味かと思ったら、「もはやオフにする必要はないだろう」という話だった。
ペースメーカーに悪影響がないというならそれは構わないけれど、スマホの普及で乗客のモラルが顕著に低下してることはどうしたもんだろう。

「使う人間の心がけの問題であって、道具の責任ではない」というのは、銃規制問題で保守的なアメリカ人が言うことと同じだね。
そこにはアメリカの弱点が見事に表れているんだが、反転してこの件には日本人の弱点が鮮やかに露呈する。

昔から日本人は見て見ぬふりだったと、パオロ・マッツァリーノ氏がお怒りだ。
「昔の大人は強かった」というのは、なるほどギリシアなどの「黄金時代」論と通底する願望投影かもしれない。

転移の並行現象ですね、きっと。