散日拾遺

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タイタニック/教会にて ~ ルツ記とマタイ伝

2013-09-22 16:51:29 | 日記
2013年9月22日(日)

沈むタイタニックの甲板上で、バンドマンが最後まで演奏していたバイオリンが発見されたと、9月17日付の朝日新聞。
http://www.asahi.com/international/update/0917/TKY201309170030.html

映画『タイタニック』ではいよいよ船体が大きく傾いた時、バンドが讃美歌『主よ、みもとに』を演奏し始めた。この映画は珍しく家人と映画館で見たのだが、このとき館内の一部に笑い(苦笑?)が起きたのには参った。

おおかた「主よ、みもとに近づかん」という歌詞としんみりした曲想から、葬儀の連想でもしたのだろう。
「いよいよダメだということか、それにしても早手回しな」という苦笑かと想像する。

生兵法というもので、勘違いもいいところだ。
この名曲は19世紀イギリスで生まれたものらしいが、慰めと励ましに満ちた原詞の趣を、日本語訳もよく伝えている(ただし54年版に限る)。

1 主よ、みもとに近づかん/のぼるみちは十字架に/ありともなど悲しむべき/主よ、みもとに近づかん

2 さすらうまに日は暮れ/石のうえにかりねの/夢にもなお天を望み/主よ、みもとに近づかん

3 主のつかいはみ空に/かよう梯(はし)のうえより/招きぬればいざ登りて/主よ、みもとに近づかん

4 目覚めて後まくらの/石を立ててめぐみの/いよよせつに称えつつぞ/主よ、みもとに近づかん

5 現世をばはなれて/天がける日きたらば/いよよちかくみもとにゆき/主の御顔をあおぎみん

聖書の読者には一目瞭然、主たるイメージは創世記に登場するヤコブの生涯から取られている。
どこへ行こうとも主の恵みは共にあり、我らもまた主を望んで御許に近づこうの意で、讃美歌集の中では『向上』のタイトルが付されていた。葬儀で歌われることが多いのは事実だが、生の断念や敗北宣言とは無関係、どこまでも天を指して歩む信仰の宣言である。
間近に迫った破局の中でも、主よわれらを守りたまえと祈りを合わせるバンドマンの配慮だった。
だから下記の聖句を想起するのは、たぶんそんなに外れていない。

いずれにせよ、ここ、笑うところじゃありませんから。

 たとえわれ死の陰の谷を谷をゆくとも、わざわいを恐れじ
 主共にいませばなり
 (詩編23)

***

今朝は幼稚科で説教当番、ナオミとルツの物語だよ、3~6歳児にどう話せとおっしゃるの?

「ユダヤの国に大きなききんがありました。ききん、ってわかるかな?」
「せんそう?」と一番前の男の子
「近い!でもちょっと違うかな。食べ物が何にもなくなっちゃうことだよ、田んぼや畑にも、冷蔵庫にもコンビニにも」
「ヒロシマにはある?」
「ヒロシマ?」
「うん、ヒロシマならあるよ」
田舎のおじいちゃんちでもあるのかな、きっと
「ヒロシマにもなくなっちゃうさ、それがききんだからね」
「ふぅん・・・」

彼のおかげで一瞬にして童心に返った。20人近い子供たちが、口を半開きにしてよく聞いていること。子供は偉いなあ。

ルツ記は短いものだが、これがまた特有の慰めに満ちたもので。

飢饉を逃れ、エリメレクとナオミの夫婦はモアブの地に移り住む。難民だ。
聖書の中には、ほとんど常景のように難民が登場する。
ヤコブ一族のエジプト移住も経済難民だった。ヘロデの手から同じくエジプトに逃れたヨセフとマリアは、政治難民である。
日本人には分かりにくい、世界史上ありふれた風景である。

夫婦のふたりの息子はモアブの現地人から妻を迎えるが、エリメレクと息子たちは相次いで死に、三人の女が残される。
ユダヤ人の姑と、モアブ人の嫁二人。
ナオミは飢饉の去った故国へ戻ることを決意し、嫁二人にそれまでの労を謝してそれぞれの故郷へ帰そうとする。オルパは泣く泣く去っていくが、ルツはナオミを離れようとしない。そのルツの言葉が聖書に記されている。

 あなたの民はわたしの民
 あなたの神はわたしの神
 あなたの亡くなる所でわたしも死に
 そこに葬られたいのです。
 (ルツ記 1:16下-17上)

夫に先立たれた嫁が、夫と息子たちに先立たれた姑に寄せる愛情と孝養の言葉。
それには違いないが、専らその観点から読むなら美しくもあまりにセンチメンタルで、やや不自然な印象すらある。

これを若い異邦の女ルツの信仰告白 ~ 人生の決断として読むとき、物語はやや違った輝きを帯びる。
ナオミとともにユダヤに移ったルツは、そこで富裕なボアズの寵を得て妻となる。
その子孫からダビデが、従ってナザレのイエスが生まれることになる。

・・・という話を幼稚科の子どもたちに・・・できるはずないでしょ!
だけど、話したんだ。
子どもたちの心に(頭にではない)何がどう残っていくか、知るべくもない。
しかし、何かが残っていくのでないとしたら、幼児教育にどんな意味があるだろう。
ついでに背後では、若い親たちが子どもたちと共に聞いている。

***

お勤めを終えて会堂へあがったら、T先生が待ち構えていて朝の話の続きになった。
ナオミの二人の息子のうち、ルツはどちらの妻だったのかという件で。
「分からない」が正解らしい。聖書記者にとって、そこがポイントではなかったようだ。

そこから話は例によって流れる。

「出エジプトに関する考古学的資料がいろいろ挙がってきていて・・・」
というのは少々眉唾だが、それこそポイントはそこにはない。
「エジプトを脱出してカナンに逃れた人々は、人種的にはもとより民族的にもかなり多様な集団を為していた」
とT先生はおっしゃりたいのだ。

旧約の民は、血統による集団ではなく、文化的同一性にもとづく集団ですらなく、信仰によって不断に自身をつくりだす共同体であった。イスラエルが聖書の神を選び取ったのではなく、聖書の神に対する信仰がイスラエルを作ったのだ。もとよりこのイスラエルは、今日のパレスチナに存在する超攻撃的な国家とはいささか別物である。

***

10時30分から礼拝
M牧師によるマタイ福音書の連続講解説教は、2章13節~23節。
エジプトへの避難、ヘロデの幼児虐殺、ナザレへの帰還まで。

「だまされたと知って」ヘロデは怒る。
「だまされた」の原語は ενεπαιχθη 、これはεμπαιζωのアオリスト受動態で、「嘲弄された」「愚弄された」の意味をもつ。

むろん博士らが愚弄の意図をもったわけではなく、偽りを告げたことが猜疑的な独裁者にとっては赦しがたい愚弄となったのだ。
マタイ27章で兵士らがイエスを芦の棒で叩き、唾を吐きかけるなどして「愚弄する」ところに同じ言葉が使われている。イエスの誕生において面目をつぶされた政治権力が、イエスの最期にあたって思うさま仕返しを遂げているとも取れるが、さしあたりの仕返しは幼児殺しの形で行われる。

考古学的な検討によれば、当時のベツレヘムの人口は1,000人内外、2歳以下の幼児は20人ほどと推定されるという。ちょうど今朝集まった子供たちの数ほどか。
もっともヘロデの幼児殺しに関しては、聖書以外にこれを裏づける情報がない。
ある研究者は、「生涯にわたって夥しい数の人間を殺し続けたヘロデの『事績』として、20人ばかりの幼児虐殺は記載するにもあたらなかったのであろう」と推測しているらしい。

僕の頭の中に、いつも浮かぶ想像がある。
幼子を奪われた母親たちの悲嘆が、憎悪に変わる。
「その赤ん坊」さえいなければ、こんなことは起きなかった。
もともとヘロデが求めたのは、「その赤ん坊」ただ一人の命だったのだから。

ベツレヘムの住民ですらない、旅の途上に滞在してたまたま出産しただけの流れ者の赤ん坊、
しかも当人たちは、安全なエジプトへ難を逃れている。
わたしの赤ちゃんは、その身代わりに殺された。
憎まずにいられるほうが出来過ぎている。

母親たちの憎悪が、30年後にピラト官邸前で無念を晴らす。
「十字架にかけろ!」「その赤ん坊を、十字架にかけろ」
怨念はヘロデ以上にすさまじい・・・

***

Ναζαρετ ~ ナザレ
イエスが生い立ったガリラヤの小邑
「ナザレ」には「若枝」の意味があるとM師。

 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った
 (イザヤ53:2)
ここでもマタイは旧約の預言成就に注意を喚起する。

被爆後の広島で、数十年間は草木も生えないと言われた絶望の風説を裏切って、乾いた地に若草が生えてくる。
それを見つけた人が、思わずその一茎を口に入れて噛み、命を味わう。
そのことを、仲間たちに触れて回る。

長い説教の結びが感動的だった。

故郷 ~ 魯迅の小説ではなくて

2013-09-22 01:06:50 | 日記
2013年9月21日(土)

「はじめまして」
「お久しぶりです」

ブログに書いたことをお知らせしたら、K子さんがさっそく読んでメールをくださった。

おりしも今月初め、K子さんは久しぶりに故郷松江を訪問なさっている。
そのことをこんなふうに書いてこられた。

 米子空港に到着し松江に移動するバスの中で、不思議な気持ちになりました。
 「これが故郷!」と、身体いっぱいに空気を感じ、懐かしさで胸がいっぱいになりました。
 滞在日数は長くなかったのに時間がゆっくりゆっくり過ぎ、東京の生活が非現実的なものとなっていきました。
 だから戻った時は仕事をスタートするのが辛かったです。今の仕事は好きなのに…

K子さんにとって、松江は常に好ましい土地であったわけではない。
筋金入りのお転婆 ~ というよりは相当な悪ガキだったと述懐なさるのは、親譲りのエネルギー横溢の徴であったろう。
やや長じてからは、夜になると屋根に上って仰向けに寝そべり(!)、満天の星空を見上げながら「いつかこの土地を出て広い世界へ」と念じることが日課(晩課?)であったという。

そのようにして東京に出て、都会の人となったK子さんだが、最近しきりと故郷に心が向くようになった。
ちょうどその時期に、僕がメールを送ったのである。

*****

不思議に、重なる。

僕にとっても、古都松江は簡単な場所ではなかった。
関東・東北・中部にわたって2つの幼稚園、3つの小学校、2つの中学校に通い、その数だけ転校を経験したが、渡る世間に鬼はなくどこでもすんなり溶け込むことができた。
ただ、松江だけが例外だった。それも顕著な例外だった。
そしてそれが僕の側の問題だとは、どうしても考え難い理由が多々あった。

ブログに詳しく書くような話ではないが、要するに去るにあたって必ず再訪を誓った他の場所と違い、松江だけは二度と再び足を向ける気がしなかったのである。

そんな心境が、最近になってやや変化した。
松江を懐かしむ思いが、40年以上を経て初めて滲むように出てきた。
思い出すのも腹立たしい数々の経験も、自分を鍛えてくれた面があると分かってはいたが、感謝の気持ちがそこに伴うのをようやく許容できるようになってきた。

育ててくれた人が幾人もあり、親しんでくれた友達が実は少なくなかった。
自然は豊かであり、古文化の香りはむせるほど濃かった。
鳩小屋で鳩を飼ったのも、線路脇で砂利に混じった瑪瑙のカケラを拾ったのも、空き地に秘密基地を作ったのも、すべてこの土地のことだった。
山形や名古屋まで手紙をくれた友達もあり、書こう書こうと思いながら返事を書けなかったのは僕の方だった。
何より太田先生に出会ってバイオリンに打ち込んだのは、ほかならぬ松江だったではないか。

他の土地と同様、あるいはそれ以上に松江に負うものがある。素直にそう感じるようになった。
だからこの夏、K子さんを探したのかもしれない。

****

故郷とは何だろう。
僕の故郷はどこだろう。

身体いっぱいに空気を感じ、懐かしさで胸を満たすことのできる土地がそれであるなら、僕にも故郷はちゃんとある。
この国のうちに、いくつもある。

魯迅の描いたように、現実にそこに住み続けてきた者との蹉跌に直面するのが故郷であるなら、なおのこと故郷には事欠かない。