散日拾遺

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読書メモ 015 『人が人を裁くということ』 (付記: 裁判員ASD事件)

2013-09-28 09:40:05 | 日記
2013年9月27日(金)

固い本だって読むんだよ、というところで。

しかしこれも患者さんの推薦にかかる一冊。
某大学で政治学の助教を勤めていた人(Pさんと呼んでおく)が2週間ごとに薬を取りに来て、ついでにいろんな話をしていってくれる。その中で言及されたものである。

小坂井敏晶 『人が人を裁くということ』(岩波新書 2011年)

著者はちょうど僕ぐらいの年回りで、ずっとフランスで社会心理学研究を続けているらしい。
パリ第8大学の准教授とあり、足跡に興味を引かれる。

著作は三部立て、タイトルはそれぞれ、Ⅰ.裁判員制度をめぐる誤解 Ⅱ.秩序維持装置の解剖学 Ⅲ.原罪としての裁き。

Ⅰ、Ⅱは文句なくタメになる。
Ⅰ部は以前にちょっと書いたかな、陪審制や参審制など、司法過程への市民参加が生まれてきた歴史的背景が解説され、あわせて「陪審制では素人の感情論によって極刑が宣告されやすくなる」といった指摘が事実に反すること(実際はどこの国でも極刑が宣告されにくくなる)や、司法における「真実」の意味などが論じられ、勉強になる。
読んでいる途中でふと気になり、『十二人の怒れる男』を借りてきて見た。1954年制作、ヘンリー・フォンダ主演のアメリカ映画。これも見て損はない。
映画の中で innocent と not guilty が微妙に ~ 脚本の立場からは周到に ~ 使い分けられているのが印象的である。前者は「潔白(=容疑者は犯罪を行っていない)」、後者は「無罪(=容疑者が犯罪を行ったとは断定できない」で、意味がはっきり違うことを誰でも頭では理解するが、これほど混乱しやすい理解もないであろう。

Ⅱ部はさらに衝撃的だ。要は冤罪というものがどれほど多く、どれほど起きやすく、またいかに不可避であるかを事実に即して説いたもので、この部分だけでも必読としたい。
目撃証言が根拠薄弱であるのは人の認知から来る生理学的な宿命であることが、実験証拠から雄弁に示される。さらに、警察・検察の取り調べ過程の自白誘導がどれほど強力かつ一般的であるか、決して断じて日本だけではない、著者の居住するフランスなどはヨーロッパでも最悪に近く、人権宣言発祥の地としての栄誉を損なうこと夥しい。そして悪辣な人権侵害は悪意から生じるのでなく、権力をまとった正義の過剰な自負から生まれることが明らかに読みとれる。
冤罪は医学でいえば overdiagnosis(過剰診断)にあたるが、診断の(=犯罪者摘発の)感度を挙げようとする時に必然的に随伴する「副作用」であって、冤罪をゼロにしようと思えば犯罪者の摘発を断念する他はない。そこに「人が人を裁くこと」をめぐる最も根本的なパラドックスがあることも、重々よくわかった。

「人は罪を犯さずには生きていけない」という命題は、「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きない」という人の性(さが)についてのみ正しいのではなくて、潔白の人間に罪を着せるというとんでもない副作用をもった司法制度を捨てては生きていけない、哀れな人間の限界についてこそ考えるべきことなのだ。

一カ所だけ抜き書きしておく。(よく見ると、日本語がちょっとヘンだ。)

 自白とともに、目撃証言は決定的影響を判決に与える。次の実験を参考にしよう。食料品店に強盗が入り、店主と娘が殺されたという物語を被験者に示す。三つの実験条件を比較した。
① 状況証拠だけの場合は、被験者の18%が有罪を認めた。
② 状況証拠に加えて、他の店員が殺害現場を目撃したと伝えると、72%が有罪を認めた。
③ 状況証拠と目撃証言を伝えた後に、しかし目撃者は近視であり、犯行時に眼鏡をしていなかったため、よく見えなかったはずだと補足説明した場合でも、被験者の68%は有罪だと判断した。
 目撃証言の影響力はとても強い。②と③にほとんど違いがないように、目撃者があるといったん信じると、その後に証言の信憑性が否定されても、判断は容易に変わらない。
(P.112)

*****

ところが、ですね。
筆者の明快な書きっぷりが、Ⅲ部に入ると豹変するのだ。

要約すれば、「人は自由な意志によって自らの行動を決定する」という基本的なモデルに対する疑問を、最新の大脳生理学の成果を紹介しつつ展開している。
人は自身の意志で選びとった決断に関して責任をとるわけで、責任のないところに刑罰も成立しない。知的障害や精神障害のために自分の行動に責任をもつ能力を欠くと判断される場合、その程度に応じて刑が減免されるのは周知の通り。
しかし筆者は「健常人であれば自分の行動を自ら主体的に決定しているというのは、迷妄にすぎない」と主張しているようで、これを敷衍すれば「人は人を裁きえない」ということにもつながる。

これ自体は考えるべき主張だし、それにさほど新しくない問題のはずである。
落ちこぼれ法学部生であった僕にも、刑法総論の中でこのテーマが紹介された記憶の痕跡が残っている。いっぽうでマルクス主義、他方で精神分析理論は、「意志の自律・自由」に疑いの刃を突きつける強力な論拠だった。
いま、大脳生理学を援用してこれを再論するのはちっとも構わないのだが、問題は筆者がこの古くて新しい問題に対してどういう考えを持ち、どういう判断をしてるかが、読んでもまったくわからないことなんですよ。
んじゃ結局、どうしろというわけですか?
「そこは自分で考えてください」と潔くオープンに終える風でもないんだな。

こっちの読み方が悪いのかと首をひねるのだが、どうもよくわからない。
「原罪としての裁き」という小見出しも意味不明で、このタイトルを見るまでもなく上述のように「人の罪」について考えさせられたⅡ部までの明晰さが、Ⅲ部ではまるっきりの混沌に場を譲ってうやむやに消えている。
問題を出し散らかしたままで、お片づけをしていないのだ。

昨日またPさんがやってきたので印象を正直に話したら、彼ニヤリと笑って満足そうに頷いた。

「犯罪をおかすのも自由意志ではなく、脳の生理過程の後追いだというなら、『この本は誰が書いたの?あなたはどこにいるの?』ってことなんですよね。」

おっしゃる通り。
そうと知っててこの本を勧めたわけ?
悪い患者だな~

*****

9月26日(木)のニュースで、裁判員をつとめた福島県の女性が、資料として残酷な画像(?)を見せられたために急性ストレス障害に陥ったとして、国を提訴していることが報じられた。

情報不足でさしあたり何も言うことができないが、重要な問題と思われるので記録に留めておく。