2024年2月3日(土)
> 1488年2月3日、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の喜望峰に到達した。大航海時代の幕開けである。
ポルトガル がインド航路開拓に本腰を入れだしたのは、 1485年頃からだ。当時貴重品だった香辛料の貿易は、べ ネチアとオスマントルコが独占していたので、何とか別のルートを開拓するのが目的だった。この頃、中国から羅針盤がもたらされ、航海技術も飛躍的に向上していた。
1487年8月、国王ジョアン二世の命でディアスはリスボンを出港した。翌年2月にアフリカ西海岸を南下中、嵐に巻き込まれ、知らずにアフリカ最南端を回っていたという。ちなみに、「喜望峰」という名まえは国王ジョアン二世の命名によるものである。
ディアスはそのままインドへと船を進めたかったのだが、乗組員たちの強い反対にあってやむなく引き返した。しかし、ディアスの喜望峰到達により、ポルトガルはインドへの航路を独占確保したのである。
次のポルトガル王マヌエル一世の命を受けてヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達したのは、その10年後のことであった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.39
ディアス自身は、周辺があまりにも荒れる海域であったため Cabo destoso(嵐の岬)と命名した。しかし、この航路の発見が上述の通り香辛料の貿易ルートを拓いたため、後にジョアン二世が「希望の岬」(Cabo da Boa Esperança)と改めさせたという。
いずれにせよ普通に訳せば「希望岬」となるところ、Cabo(英:Cape)が「峰」と訳され、さらにBoa Esperança(英:Good Hope)が「喜望」と訳され二重に捩れた事情について、放送大学茨城学習センター元所長の朝野洋一氏が、新井白石や福沢諭吉に遡りながら面白く書いておられる。
『喜望岬はどうして喜望峰なのか』
古くはヘロドトスが『歴史』の中で、エジプト第26王朝のネコ2世の命により、フェニキア人がアフリカ周航を行ったことを記しているという。その途上、天頂の北側に真昼の太陽を見たとの報告があり、ヘロドトスはこれを「ありえないことと」したが、今日から見ればフェニキアの航海者らが確かに赤道を越えて南下したことの証拠と見ることができる。
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喜望峰 Wikipediaから
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