散日拾遺

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2月16日 カストロ、キューバ首相に就任(1959)

2024-02-16 03:39:43 | 日記
2024年2月16日

> 1959年2月16日、キューバの革命家・政治家・弁護士、フィデル・カストロが革命政府の首相に就任した。
 この年の1月1日に、カストロ率いる反政府軍はバチスタ大統領の独裁政権を倒し、バチスタ大統領と首相兼外相グエルはドミニカに逃れていた。翌2日カストロはバチスタの国外逃亡と、ウルチア臨時大統領の就任を宣言し、1月8日にハバナに入った時には独裁政権から解放された民衆が彼を熱狂的に迎えた。以後、キューバは社会主義国家となった。
 カストロがバチスタ政権に対する革命闘争に立ち上がったのは、1953年7月26日、26歳の時である。彼は武装勢力を組織してオリエンテ州モンカダ要塞を襲撃したが、結果は無残な失敗で80人以上の犠牲を出し、自身も逮捕されて懲役15年を宣告された。2年後恩赦で釈放されてメキシコに亡命、その後はアメリカで反バチスタ政権の運動を続けた。
 1956年12月に、秘密裏に仲間と共にキューバに帰国したカストロは、多くの犠牲者を出しつつも、チェ・ゲバラと共にゲリラ戦を展開した。バチスタは大量の政府軍を投入して制圧にあたったが、兵士の多くが軍務を放棄したため、闘争はカストロの勝利に終わった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.52

フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス Fidel Alejandro Castro Ruz
(1926年8月13日 - 2016年11月25日)

 武装勢力を組織して要塞を攻撃したとあれば立派な反逆罪で、懲役で済んだのがそもそも不思議である。カトリック司教の仲裁のお蔭だったらしいが、無神論者のカストロがそれを恩に着た気配はさらさらなく、後に権力を奪取してからは教会の破壊をほしいままにした。獄中では読みたい本を読み、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」と題した著作まで発刊したあげく、2年足らずで恩赦である。このあたりの事情は記録の字面を辿るだけではわからない。
 メキシコ亡命時代には、バチスタの意向を受けたメキシコ警察によって逮捕されたが、メキシコ革命の功労者である元大統領ラサロ・カルデナス(1895-1970)の歎願によって釈放されたというから、よほど人を引きつける魅力があったのだろう。
 そんなカストロであるが、キューバ危機の際、フルシチョフがキューバの頭越しにアメリカと手を打ったことからソ連に対する不信感を抱いたものの、1964年にフルシチョフが失脚した後は態度を変え、1968年の「プラハの春」におけるソビエト軍のチェコスロバキア侵攻に対しては理解を示した。このことが盟友チェ・ゲバラとの決別の大きな要因になったという。カストロとゲバラを、スターリンとトロツキーになぞらえてみたい気が少しする。
 となると次はゲバラに焦点が移るが、これはもうキリがないから後日の宿題。ただ、その名の由来について少しだけ。

エルネスト・ゲバラ Ernesto Guevara
(1928年6月14日 - 1967年10月9日)

 「チェ・ゲバラ Che Guevara」の呼び名で知られるが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語など)で「やぁ」「おい」「お前」といった砕けて親しい呼びかけ言葉であり、ゲバラが初対面の相手にしばしば「チェ、エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していたことから、キューバ人たちが面白がって付けたあだ名である。キューバ革命以降、ラテンアメリカで「チェ」もしくは「エル・チェ El Che」といえば彼のことである…
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