散日拾遺

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2月10日 ラフカディオ・ハーン、小泉八雲となる(1896年)

2024-02-10 22:26:30 | 日記
2024年2月10日(土) 

> 1896年(明治29年)2月10日、かねてより日本に帰化することを希望していたラフカディオ・ハーンは、手続きの完了によって日本国籍を取得した。ハーンは妻節子の実家である小泉家に入籍し、小泉八雲となった。
 イギリス人の父とギリシャ人の母の間に生まれたハーンは、アメリカでジャーナリストとしての第一歩を踏み出した。文筆の才能は、二十代半ばで記者として花開いた。しかし、下宿先の料理人であった白人と黒人の混血女性と結婚したことで、彼の人生は一転した。当時のアメリカ社会では法律的に認められない結婚であることから、ハーンは職を失い、結局は結婚生活も破綻して、失意のうちにアメリカを去るのである。
 日本に来たのは1890年4月4日、39歳の時であった。ハーパース・マガジンの記者として来日したのだが、雇用条件が一緒に来た挿絵画家より悪いことに腹を立てて契約を破棄し、そのまま日本で教職の道を選んだ。
 ハーンにとって職を得、しかも妻となる節子と出会った松江は特別に愛着のある土地だった。日本への帰化については、ニューオーリンズの知人へ送った節子との結婚を知らせる手紙の中に書かれている。実際に帰化したのはその六年後だが、最初の結婚の失敗から、法律的にも完全な形で新妻を幸せにしたいと考えたようだ。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.46


 ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲(1850-1904)については、既に何度も触れている。昭和40年から43年にかけて松江に住み、徒歩の距離に小泉八雲記念館および旧居があったからである。居宅は今日では一般開放されていないらしく、四季折々の自然が楽しめるよう三方に開けた庭など、かつての記憶が今となっては貴重である。
 「おもひはかりと常識と ~ クリスマスにラフカディオハーンのネタ元を知ること」
 https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/dfe802bbd13a960d75605ea61566ba10
 「common sense と常識と」
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/66056bac799b9d062e32c23b83c9264a
 などなど

 イギリス人の父とギリシア人の母の間に生まれたのは事実だが、詳細はこのようにさらりとした話ではなかった。父はアイルランド系で、イギリスの軍医としてギリシアのレフカダ島滞在中に地元名士の娘と結婚し、三男子をもうけた。その次男がラフカディオである。父はその後も海外での勤務が続いたため、母親とともに父の実家のあるダブリンに送られた。その後、母は精神を病んでギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。ラフカディオは両親と会う機会の乏しいままに成長し、父方の大叔母に厳格なカトリック文化の中で教育されたため(注:父親自身はプロテスタント)、少年時代にはすっかりキリスト教嫌いになり、ドルイド教に傾倒するようになったという。
 生い立ちにその後の人生を解くカギが読みとれるとするなら、その見事な実例ともいえそうである。以下、Wikipedia から補足。

 1890年、ネリー・ブライと世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカ合衆国でのハーンの公式伝記の著者)から旅行談を聞かされた際に、いかに日本が清潔で美しく、人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞いた。ハーンが生涯を通して憧れ続けた美女でもあり、かつ年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの言葉に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意したという。一方では、この頃に英訳された古事記を読み、そこに描かれた日本に惹かれたとの説もある。
 来日後は、松江に続いて熊本、神戸、東京に住んだ。1896年、 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。1903年、東京帝国大学退職。後任は夏目漱石であった。1904年、心臓発作により自宅で逝去。享年54歳。
 既出のビゴー(1860-1927)は八雲より10歳年下である。1882年に22歳で来日し、日本人女性と結婚したが1899年に帰仏した。八雲は1990年に40歳で来日し、同じく日本人女性と結婚して1904年に日本で没している。並べてみていろいろと興味深い。

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