散日拾遺

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2月25日 コラソン・アキノがフィリピン大統領となる(1986年)

2024-02-25 03:26:00 | 日記
2024年2月25日(日)

> 1986年2月25日、コラソン・アキノが臨時政府を樹立し、フィリピン大統領となった。彼女は、二年半前に暗殺されたアキノ上院議員の未亡人である。
 20年あまりにわたって独裁を続けたマルコス大統領は家族と共に亡命し、混迷を見守っていたアメリカ、日本などが新政権を承認した。この様子は各国の報道機関によって中継され、テレビを通して民衆の喜びと熱気の伝わる報道となった。
 コラソンの夫、ベニグノ・アキノはマルコス大統領の政敵として大統領選に出馬することが期待されていたが、1977年に銃殺刑の宣告を受けアメリカに亡命していた。1983年、野党勢力の結集を目指してフィリピンに帰国。到着した飛行機から降りたところを殺害された。事件の真相究明委員会が組織されたが国民の信用を得られず、元高裁判事を中心とした民間人による委員会が発足し、以後この事件への政府の関与などを解明した。
 コラソンは1986年2月7日の大統領選挙に夫の遺志をついで立候補したが、選挙は公正には行われず、公式の選挙管理委員会と民間の監視団体が選挙結果をめぐって対立する異常事態になった。結局マルコスの側近ラモス参謀総長代行とエンリレ国防相がアキノ側につき、この日マルコス政権は終焉を迎えたのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.61


 あれを「暗殺」と呼ぶものだろうか。コトバンクには暗殺の定義として「政治的に影響力をもつ人間を、政治的、思想的立場の相違に基づく動機によって、非合法的かつ秘密裏に殺害すること」とある。
 ニノイことベニグノ・アキノの殺害は半ば公然と行われた。飛行機内の様子が同乗する各国の取材陣によってテレビカメラで撮影されており、世界中がそれを見、僕らも見ることになった。
 死刑囚として収監中にカトリシズムやマハトマ・ガンディー、マーティン・ルーサー・キングの著書などから影響を受け、自身も非暴力による政権批判を身上とするようになった。そのニノイが飛行機経由地の台北のホテルでTBSのインタビューに応じ「明日は殺されるかもしれない、事件は空港で一瞬のうちに終わる」と語ったが、どの程度の確度でそれを予測していたのだろうか。
 着陸した搭乗機に3人の兵士が乗り込み、ニノイ一人を機外へ連行した。ニノイは同行の記者に「必ず何かが起こるから、カメラを回し続けておいてくれ」と言い遺し、これが最期の言葉になった。タラップを降りて10秒の後に頭部を撃たれて即死する。彼自身の予告した通りだった。
 日本人カメラマンらはドア付近で足止めされ、発砲の瞬間を撮影することができなかったが、「撃て、撃て」という兵士の声が映像に残された。別の日本人ジャーナリストは、ニノイを連行した兵士が撃つのを見たと主張した。それらはすべて黙殺され、フィリピン政府は軍と無関係の共産党系ゲリラの単独犯行であると発表した。
 これを「暗殺」と呼ぶものかどうか。

“ニノイ” ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア 
Benigno Simeon "Ninoy" Aquino, Jr., 
(1932年11月27日 - 1983年8月21日)

 この時、独裁者フェルディナンド・マルコスは10日前に受けた腎移植手術の経過が思わしくなく入院中であったが、だから事件に関与していないとは誰も考えなかった。事件を機に、それまで散発的であった反マルコス運動が、フィリピン全土を覆う大衆蜂起の様相を呈するようになる。この間、TBS制作のニュース番組が海賊版として各地で上映されたことは、運動の盛り上がりにあずかって力があったという。


マリア・コラソン・スムロン・コファンコ・アキノ
María Corazón Sumulong Cojuangco Aquino
(1933年1月25日 - 2009年8月1日)

 コラソン・アキノは当初、大統領選出馬に消極的であったが、100万人に及ぶ署名が集まり説得されて心を決めた。インディラ・ガンジーが父ジャワハルラル・ネルーの病死後、支援者たちに要請されてインド首相となったことを思い出す。
 就任後のインディラ・ガンジーは大いに政治的手腕を発揮し、ネルーの娘としてのお飾り的な役割を期待した支援者たちを驚かせた。コラソン・アキノの場合も、その活躍ぶりは人々の予想を良い意味で裏切ったに違いない。農地改革の実現、地方分権の推進、さらには米軍撤退まで、汚職にまみれて深刻な機能不全に陥っていたマルコス時代と決別し、フィリピンの面目を一新した手腕には、泉下の亡夫も舌を巻いたことだろう。彼らの長男、ベニグノ・アキノ3世が第15代大統領となったことも、ネルー/ガンディー家と重なるものがある。
 
 暗殺とは、政治的に影響力をもつ人間を、政治的、思想的立場の相違に基づく動機によって、非合法的かつ秘密裏に殺害すること。
 アレクセイ・ナワリヌイの死こそ、まさしくこの定義に合致すると思われる。「思われる」としか言えないのは、秘密裏に行われる「暗殺」に必然的につきまとう不可視性の故である。確実であっても厳密に立証することがすぐにはできない。
 妻と娘は危険を顧みずバイデンに面会した。母親は息子の遺体を質にとられ、公権力に恫喝される様を語っている。
 明けない夜はないという約束が真実でありますように。

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