散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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バラの棘

2024-02-23 08:02:42 | 日記
> リルケは最後白血病で亡くなったが、それは自らが愛したバラの棘で指を刺した事が原因だ。

M.A.様
 コメントありがとうございます。そうだったんですね。
 棘の刺し傷は傷口が小さい割に奥が深く、おまけに雑菌の感染を起こしやすいでしょう。それでも健康時にはすぐに治るところ、白血病による免疫力の低下があってこじれたんでしょうね。
 そのバラに対する讃頌が、あの墓碑銘ということでしたか。
 重ねて、ありがとうございました。

リルケの墓

Ω


2月23日 リルケが『オルフォイスへのソネット』を書き上げる(1922年)

2024-02-23 03:36:51 | 日記
2024年2月23日(金・祝)

> 1922年2月23日、ドイツの詩人ライナー・マリア・リルケは、滞在先のスイスのミュゾットの館で『オルフォイスへのソネット』を完成した。この作品は、55のソネットから成る長大なものだが、その前半(第一部)は2月2日から5日までの4日間に一気に書かれ、後半(第二部)は15日から23日の間に書き上げられている。この二十日余りは、ドイツ文学史上でも特筆されるべき、創造の嵐の期間であった。
 というのは、この間にリルケはもうひとつの代表作『ドゥイノの悲歌』も完成しているからだ。こちらは『オルフォイス』とは対照的に難産で、最初に着手されたのは、1912年の初頭までさかのぼる。アドリア海沿岸のドゥイノの館で書き始められたため、『ドゥイノの悲歌』と名づけられている。その後、第一次大戦による中断なども加わり、1922年の完成までに十年以上を費やしているのである。
 『悲歌』完成の喜びを、リルケは知人への手紙の中で、こう表現している。「私の手はまだ震えています。……食事のことなどは片時も考えられませんでした。誰がその間私を養ってくれたか、不思議なくらいです。けれども、いま悲歌はあるのです、あるのです」 と。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.59 


ライナー・マリア・リルケ
(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日 - 1926年12月29日)

> オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにルネ(・カール・ヴィルヘルム・ヨーハン・ヨーゼフ)・マリア・リルケ(René Karl Wilhelm Johann Josef Maria Rilke)として生まれる。
 父ヨーゼフ・リルケは軍人であり、性格の面でも軍人向きの人物だったが、病気のために退職した後プラハの鉄道会社に勤めていた。母ゾフィー(フィアと呼ばれていた)は枢密顧問官の娘でありユダヤ系の出自であった。二人は結婚後まもなく女児をもうけたが早くに亡くなり、その後一人息子のルネが生まれた。彼が生まれる頃には両親の仲はすでに冷え切っており、ルネが9歳のとき母は父のもとを去っている。
 母ゾフィーは娘を切望していたことからリルケを5歳まで女の子として育てるなどし、その奇抜で虚栄的な振る舞いや夢想的で神経質な人柄によってリルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになる。母に対するリルケの屈折した心情はのちルー・アンドレアス・ザロメやエレン・ケイに当てた手紙などに記されている。リルケは父の実直な人柄を好んだが、しかし父の意向で軍人向けの学校に入れられたことは重い心身の負担となった…

> (1902年以降のリルケは)図書館通いをして『ロダン論』の執筆を進めながら親しくロダンのアトリエに通い、彼の孤独な生活と芸術観に深い影響を受けた。ことにロダンの対象への肉迫と職人的な手仕事とは、リルケに浅薄な叙情を捨てさせ、「事物詩」を始めとする、対象を言葉によって内側から形作ろうとする作風に向かわせた。またリルケが直面したパリの現実と深い孤独も、その詩風と芸術や人生に対する態度を転換する大きな契機となった。
 その末に辿りついた成果が1907年の『新詩集』である。またこの転換を端的に示すものとして、「どんなに恐ろしい現実であっても、僕はその現実のためにどんな夢をも捨てて悔いないだろう」というリルケの言葉が残っている。リルケは一時ロダンの私設秘書になり、各地でロダンについての講演旅行なども行なった。その後誤解がもとで不和となったものの、リルケのロダンに対する尊敬は終生変わることがなかった。

 『マルテの手記』も『オルフォイスへのソネット』も『ドゥイノの悲歌』も、どれ一つとして一行も読んでいないし、たぶんこれからも読まないと思うが、リルケという現象には興味を引かれる。
 「対象を言葉によって内側から形づくろうとする」とは、どんな作風なのだろう。リルケはロダンからそれを学び、そのロダンはダンテの熱烈な愛読者だった。リルケは一方では1899年にロシアに旅して71歳のトルストイと出会い、その人となりやロシア民衆の素朴な信仰心に深い影響を受けている。フランスではジッドと交友を結び、エル・グレコに傾倒してスペインを旅するなど、全ヨーロッパの空気を吸って才能を伸ばしていった。俳句にも関心を示した時期があるという。
 裕福で自由に旅行できたというわけではない、1901年に彫刻家クララ・ヴェストホフ(1878-1954)と結婚して一女を儲けながら、貧困のために同居できない始末だった。そのうえの旅行癖だから、妻子とは離別することにならざるを得ない。生活者としては破綻している。
 晩年はヴァレリーの翻訳に精力を傾け、健康を害してサナトリウムに入り、最後は白血病で亡くなった。遺言によって墓碑銘に指定されたのが、以下の詩である。いったいどんなゴールに到達したのだったか。

Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter soviel Lidern.

薔薇よ、おお純粋なる矛盾よ、
かくも多くのまぶたの下に 誰の眠りも宿さぬことの喜びよ


Ω