散日拾遺

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2月27日 徳川光圀『大日本史』の編纂に着手(1657年)

2024-02-27 03:07:41 | 日記
2024年2月27日(火)

> 1657年(明暦3年)2月27日、水戸第二代藩主、徳川光圀は駒込の別邸(現東京大学農学部)内に史局を開設し、『大日本史』の編纂という大事業に取りかかった。
 徳川光圀といえば、何といっても『水戸黄門漫遊記』が有名だが、これは全くの後世の創作であり、天下の副将軍だった事実もない。
 ただ、光圀は幼少の頃から非常に利発で、そのため、第三子であったにもかかわらず、二人の兄を飛び越えて、家督を相続している。これに関し、次のようなエピソードが残っている。父、徳川頼房の跡取りを決めるため、頼房の側近の中山新吉が三人の息子の品定めに来た時のことだ。六歳の光圀は「爺、遠路大義である。これを遣わす」と言って、膳の鮑を皿ごと取って差し出した。中山は、その堂々たる態度に感銘を受け、光圀こそ家督を継ぐにふさわしい大器であると感じたというのである。
 こうして光圀は水戸藩を継ぐが、兄の立場を慮り、第三代は長兄の子に継がせることを誓う。そして、自らは『大日本史』の編纂に生涯をかけたのである。歴史編纂を思い立ったのは、十八歳の時に『史記』の「伯夷伝」を読んで感動し、修史の志を立てたのがきっかけだと、「大日本史叙」には書かれている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.63

徳川 光圀
寛永5年6月10日〈1628年7月11日〉 - 元禄13年12月6日〈1701年1月14日〉
 
 水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男、徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
 名君の誉れ高い光圀であるが、「少年時代の光国(はじめはこの字をあてていた)の素行はいわゆる不良」とある。いったいこれで何人目だろうか。
 「派手な格好で不良仲間と出歩き、相撲大会で参加した仲間が次々と負けたことに腹を立てて刀を振り回したりする振る舞いをあり、吉原遊廓へ頻繁に通い、弟たちに卑猥なことを教えたりもし、さらには辻斬りを行うなど」とは、念の行ったことである。もっとも「兄を差し置いて世子とされたことが少年の気持ちに複雑なものを抱かせ云々」と注釈にあるのは、分からないではないことだ。
 織田信長の奇行は平手政秀の諌死を招くことになった。光国の方は上述の通り、『史記』の「伯夷伝」に出会って学問に目覚め、生活も改まったたというが、少々出来過ぎているようにも思われる。
 伯夷は孤竹国の王子であったが、弟の叔斉と互いに王位を譲り合い、結局二人して出奔することになった。周の西伯の徳を慕って身を寄せようとしたが、西伯没するや跡を継いだ武王が、暴君で知られた殷の紂王を討たんとするのを知り、諌言したものの容れられず首陽山にこもる。周の食物を口にするのを潔しとせず、薇(ぜんまい)を採って食し、遂に餓死するに至った。
 高校の漢文教科書に載っていた「伯夷伝」クライマックスを書き下し文で。

 彼の西山に登り 其の薇を采る
 暴を以て暴に易へ 其の非を知ず
 神農・虞・夏 忽焉として没す 我安くにか適帰せん
 于嗟(ああ)徂(ゆ)かん 命の衰ヘたるかなと
 遂に首陽山に餓死す 
 此に由りて之を観れば 怨みたるか非ざるか

 これに続いて、「善人がしばしば非業の死を遂げ、悪人がしばしば天寿を全うする」現実の指摘を経て、「余甚だ惑へり、所謂天道は是か非か」という近代感覚にも通じる司馬遷の問が語られるのだが、この一連の物語のどのあたりが迷える不良世子の心に訴えたのか、にわかには判然としない。
 
 それはさておき、改心のきっかけとなった『史記』が『大日本史』のモデルでもあることを初めて知った。幕府が1662年(寛文2年)に『本朝通鑑』の編纂を開始したが、これは編年体である。歴史に目覚めた光圀はその向こうを張って、紀伝体の史書編纂を思い立ったのだ。できあがったものは本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女・群臣)170巻、図表154巻、全397巻226冊という大部に及び、神武天皇から後小松天皇までの百代の帝王の治世をカバーする。記事は出典を明らかにし、考証にも気を配った質の高いものであるという。明暦3年(1657年)に着手され、いちおうの完成を見たのはは光圀晩年の元禄10年(1697年)だった。『大日本史』と命名されたのは、光圀没後の正徳5年(1715年)である。
 編纂作業が進む中で、光圀は明の遺臣・朱舜水に出会い、大いに影響を受けたとされる。とりわけ『大日本史』の一つの特徴とされる南朝正統論については、朱舜水に励まされたものらしい。漢民族の王朝である明が1644年に満州族の清に滅ぼされた。日本人を母とする鄭成功(1624-1662)は台湾に依って抵抗を続け、多くの明人が日本に渡来した時代である。朱舜水も、そもそもは鄭成功からの請援使として日本に派遣されているから、南朝に肩入れする心理は理解しやすい。
 その後、明の復興を諦めて日本に定住し、81歳で江戸で没した。わが国と中国とのつながりの深さや、「鎖国」というシステムが実際にはかなり選択的であったことを示すものでもある。

朱 舜水
万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日)
漢土西看白日昏
傷心胡虜拠中原
衣冠誰有先朝制
東海翻然認故園 

 朱舜水が徳川光圀にもたらしたものは、南朝正統論の他にもある。中華麺である。光圀先生すっかりこれが気に入って、麺の作り方や味つけの仕方まで教えてもらい、自分の特技としてしきりに調理したらしい。だしは長崎経由で輸入される中国の乾燥豚肉からとり、薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミの五辛を使うという凝りようで、要するにラーメンである。この料理に後楽うどんという名をつけ、客人や家臣らにふるまったとの記録も残っているそうな。
 食べてみたかったな、これは。

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