散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

2月20日 アメリカの宇宙飛行士グレン、地球周回(1962年)

2024-02-20 03:48:05 | 日記
2024年2月20日(火)

> 1962年2月20日、アメリカの打ち上げたフレンドシップ七号マーキュリー宇宙船は、宇宙飛行士ジョン・グレンを乗せて地球を三回まわった。
 この飛行はトラブルに見舞われ続けた。自動操縦装置の故障で、手動操作を行わなくてはならなかったし、熱遮蔽装置の故障により、大気圏再突入の際に切り離されているはずの逆噴射ロケットも付いたままだった。こうした困難にもかかわらず、グレンは無事生還し、英雄となった。
 その後、グレンは政界に入り、オハイオ州選出の上院議員となった。そして、1998年1月、36年の時を経て、彼は再び宇宙船に乗る機会を得た。NASAがグレンをスペースシャトル、ディスカバリーに搭乗させると正式に発表したのだ。
 今回の彼の役割はペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)であると同時に、老化に関する実験の被験者だった。実験への参加は、もう一度宇宙に行きたいという本人の6年越しの希望だったという。搭乗時にグレンは76歳であった。なお、同乗者の中には初の日本人女性宇宙飛行士向井千秋さんもいた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.56


 16日の項で、チェ・ゲバラについて一つ書き落とした。1959年に来日した際に、ゲバラはわざわざ予定を変更し強く望んで広島を訪問、平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花の後、原爆資料館と原爆病院を訪れている。中国新聞の記者の取材に答え、その中で「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と問うた由。

 さて本日のこと、2月20日に記すべき出来事としては、あまりパッとしない。もともと上掲書のタイトルには「グレンがアメリカで初めて地球の軌道をまわる」とあった。アメリカにとって嬉しくもあろうが、人類にとっては二番煎じ、もとい三番煎じである。
 一番乗りが1961年4月12日、ソビエト連邦のユーリ・ガガーリン(1934-1968)のボストーク1号。地球を一周したところで大気圏に再突入し、最後はパラシュートで降下した。同年8月7日には、ガガーリンに先陣の功を譲ったゲルマン・チトフ(1935-2000)がボストーク2号に乗り、これが二番手。こちらはまる一日以上にわたって地球を周回し、機内で食事をとるなどの実験を行っている。この時チトフは満25歳11か月、軌道宇宙飛行に関しては現在に至るまで最年少である。
 グレンの飛行は彼らの後塵を拝したもので、一日も早くソ連に追いつきたいとの焦りが諸々の不具合を生んだ一因でもあっただろう。もっとも拙速はソ連も似たようなもので、ガガーリンは飛行中に中尉から少佐に二階級特進とのタス通信のニュースを聞いて喜んだが、この発表を飛行中に伝えたのは、当時の技術ではガガーリンが無事生還する可能性が低いと政府高官が考えたためだという。そういえば二階級特進は、戦死者を遇する通例でもある。
 ガガーリンもチトフ同様27歳と若く、軍人としては実戦経験をもっていなかった。一方のグレンは1921年生まれの満40歳。大戦中にはマーシャル諸島などで日本軍に対する対地攻撃に参加し、朝鮮戦争ではセイバーに搭乗してMiG-15を3機撃墜している。きな臭い手である。
 年長のジョン・グレン(John Herschel Glenn Jr., 1921年7月18日 - 2016年12月8日)は、34歳で飛行機事故死したガガーリンはもとより、チトフよりもさらに長く95歳まで生きた。

Ω