散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

2月15日 田中正造、憲政本党を脱退(1900)

2024-02-15 03:59:45 | 日記
2024年2月15日(木)

> 1900年2月15日、栃木県選出の代議士田中正造は、二日前に起こった川俣事件についての質問を議会で行い、演説の途中で所属していた憲政本党を離党した。自分の立場が党派的利害と無関係であることを示すためだった。
 田中は足尾銅山の鉱毒事件に長くかかわっており、鉱毒被害に苦しむ農民と共に、この公害事件と戦ってきた。川俣事件は、 2月13日、被害者の農民一万二千人が東京に中央請願に出かける途上で、待ち構えていた三百人の警察官と憲兵によって力ずくで押さえ込まれたものだ。この事件で農民側は負傷者多数を出し、六十五人が逮捕された。
 足尾銅山は、1610年に開山された日本一の産出量を誇る銅山である。1877年古河財閥が経営に乗り出し、産出量の増加のために近代化を図ったが、多量の硫酸銅を含む排水を渡良瀬(わたらせ)川に垂れ流し続け、渡良瀬川の氾濫のたびにそれが流域の作物すべてを枯らしてしまうという、未曾有の公害事件となった。しかし、当時の政府は、対外輸出のために銅の生産量を確保したいだけでなく、古河財閥に縁のある政治家も多数いたため、田中の執拗な追及にもかかわらず、この問題に正面から取り組むことはなかった。
 この時に田中が述べたのが「民を殺すは国家を殺すなり」の名文句である。田中は71歳で亡くなるまで、この戦いに人生のすべてをつぎ込んだ。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.51

田中 正造
天保12年11月3日(1841年12月15日) - 大正2年(1913年)9月4日

 こういう人物のあったことが、もっと知られて良い。Wikipedia ぐらいでよいので皆に読んでほしい。1901年、明治天皇に直訴しようとして警官に取り押さえられ、直訴そのものには失敗したものの直訴状の内容は広く知れ渡ったこと、このとき田中は死を覚悟しており、巻き添えにしないよう妻に離縁状を送っていたが、妻の方では離縁などされていないと主張し続けたことなど。
 
 特に注目しておきたいことが二つある。
  • 田中が議会で質問を行い憲政本党から脱退した1900年は、奇しくも精神病者監護法の成立した年である。あるいは同じ議会で可決成立したものだったか。そこに規定された私宅監置の現状をつぶさに調べて報告した呉秀三(こちらはショウゾウならぬシュウゾウ)が遺した言葉、「本邦十何万の精神病者はこの病を受けたるの不幸の外に、この邦に生まれたるの不幸をも重ぬるものと云ふべし」と、上記の「民を殺すは国家を殺すなり」とが、時代を反映して見事に呼応する。はじめ、後者を「民を殺すは国家なり」と読み違えた。心中で田中はそのように叫んでいたのではないか。
  • 1902年、田中は川俣事件の公判の際にアクビしたことを罪に問われ、40日間の重禁固刑に服した。このとき獄中で聖書を読み、その後、死に至るまで聖書を手放すことがなかった。財産は全て鉱毒反対運動などに使い果たし、亡くなった時は無一文で全財産は信玄袋一つだけ、その中身は書きかけの原稿、『新約聖書』、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法と『マタイ伝』の合本であったという。しかし田中は洗礼を受けようなどとはしなかった。ひたすらに、ひたぶるに、イエスの言葉と生涯に自分を重ねて歩き通したのである。
 田中正造、天皇直訴の報を聞き、盛岡中学の生徒であった石川啄木が詠んだ歌が伝わっている。

夕川に 葦は枯れたり 血にまどふ 民の叫びのなど悲しきや

Ω