2014年7月28日(月)
こういう偶然があるものだ。
久保南海代(くぼ・なみよ)さん、クジラの絵を描きながら世界中を行脚する彼女が、先週から銀座の七丁目で素敵な小部屋を開いている。
斉木章代(さいき・ふみよ)さん、こちらは名古屋市立汐路中学校の同級生で画家、今日から始まる銀座六丁目の小さな展覧会に出品している。
無論それぞれ別々に案内を受けとったのだが、見れば会場はものの200mほどの近さである。その方角に出かけるついでを幸い、今日は午後からハシゴしてみた。
初めにフーちゃん ~ 斉木画伯。フロアの壁一面に30人ほどの画家が競作、いつもながら彼女らしい、命のこもった色の躍動が2点、その一方の上に『開』と題した横長の小品が、赤を基調に艶々と跳ねるようである。
「今回は遊んじゃった、遊んでるでしょ?でしょ?」
そう言うけれど、僕には彼女の作品はいつでも大真面目に遊んでいるように見える。ホイジンガが「遊びほど真剣な営みはない」というのは、まさしくこのことのような・・・
フー画伯に南海代さんの話をしたら、「行く行く、行こう!」と二つ返事で乗ってきた。
こちらはごく小さなビルの3階、ウナギの寝床状の部屋の壁・天井一面、さらに床の一部にまで、三つ折りの水引が揃いも揃ったり3,500枚。中に丹念に描かれた椿はデザインや色合いがすべて違い、ひとつとして同じものがないのである。ニューヨークではもっと大きな部屋を、14,000枚の椿が埋め尽くしたのだと。遊んでる、ものすごく遊んでる!
なみよさん、今日はお茶を立ててくださるとて着物をお召しだが、その生地が見たことのない不思議な様子をしている。麻のようだがもっと細い、硬くまっすぐな繊維を粗く織ったもので、見るからに涼しそうである。御父君が戦前に沖縄で入手し、愛用しておられたものをつくりかえたのだと。
これはどうやら芭蕉布(ばしょうふ)というもので、肌着に使う絹の芭蕉織とは違い、沖縄産のイトバショウから繊維をとって織ったものと帰宅後に調べがついた。涼しげなのも道理だ。500年の歴史をもつ琉球王国の自然文化遺産だが、米軍が「蚊の繁殖を防止する」と称してむやみに伐ったため、イトバショウは絶滅に瀕しているとある。
床にぺたりと腰を下ろして満架の椿水引を眺めていると、何か心の中までその色に染まってくるような。
「長崎に、行ったことがありますか?」となみよさん。
彼の地では椿は隠れキリシタンの十字のシンボルで、それゆえ自然界には見られない四弁の椿が多く描かれる。なみよさんの空間は四弁・五弁の椿が入りまじり、霊気を発して部屋ごと天まで運んでいきそうだ。
初対面のフーとなみよさんが親しげに語らうのを見ていて、画家という人々の精神の自由を思った。同時にこの場面が今初めてのこととはとても思われないのである。いわゆる deja vu というのではない、今あるものは昔からいつもあったのだ、今後も常にあるのだとでもいうような。「永遠回帰」というのはこのことなんだろうか。
フーちゃんとは中学校、つまり10代に始まる交わりである。なみよさんと親しくさせていただいたのは30代以降だ。その合間の20代にO君との出会いが入る。銀座へは有楽町経由で来たのだが、有楽町は僕にとってはO君の街でもある。彼の職場があるので、会うのは大概ここだからだ。
今日もずっと昔に彼の教えてくれた Buono Buono で昼食のつもりだったが、ふと思いついて例のミルクワンタンの店を覗いてみた。案の定、残念ながら昼は閉まっている。予定を変更して麦飯と牛タンのランチにした。感じの良い美味しい店で、店員の大半が中国人である。
O君の先祖に幕末の画家・沖冠岳がいることは昨年書いた。御令兄は造形美術家で、O君自身、美術のセンスに富むことも先日記したとおり。
フーちゃんやなみよさんの絵を見て、彼なら何を感じるだろうか。なみよさんのことは既に知っているはずだけれど。
連絡してみよう。
こういう偶然があるものだ。
久保南海代(くぼ・なみよ)さん、クジラの絵を描きながら世界中を行脚する彼女が、先週から銀座の七丁目で素敵な小部屋を開いている。
斉木章代(さいき・ふみよ)さん、こちらは名古屋市立汐路中学校の同級生で画家、今日から始まる銀座六丁目の小さな展覧会に出品している。
無論それぞれ別々に案内を受けとったのだが、見れば会場はものの200mほどの近さである。その方角に出かけるついでを幸い、今日は午後からハシゴしてみた。
初めにフーちゃん ~ 斉木画伯。フロアの壁一面に30人ほどの画家が競作、いつもながら彼女らしい、命のこもった色の躍動が2点、その一方の上に『開』と題した横長の小品が、赤を基調に艶々と跳ねるようである。
「今回は遊んじゃった、遊んでるでしょ?でしょ?」
そう言うけれど、僕には彼女の作品はいつでも大真面目に遊んでいるように見える。ホイジンガが「遊びほど真剣な営みはない」というのは、まさしくこのことのような・・・
フー画伯に南海代さんの話をしたら、「行く行く、行こう!」と二つ返事で乗ってきた。
こちらはごく小さなビルの3階、ウナギの寝床状の部屋の壁・天井一面、さらに床の一部にまで、三つ折りの水引が揃いも揃ったり3,500枚。中に丹念に描かれた椿はデザインや色合いがすべて違い、ひとつとして同じものがないのである。ニューヨークではもっと大きな部屋を、14,000枚の椿が埋め尽くしたのだと。遊んでる、ものすごく遊んでる!
なみよさん、今日はお茶を立ててくださるとて着物をお召しだが、その生地が見たことのない不思議な様子をしている。麻のようだがもっと細い、硬くまっすぐな繊維を粗く織ったもので、見るからに涼しそうである。御父君が戦前に沖縄で入手し、愛用しておられたものをつくりかえたのだと。
これはどうやら芭蕉布(ばしょうふ)というもので、肌着に使う絹の芭蕉織とは違い、沖縄産のイトバショウから繊維をとって織ったものと帰宅後に調べがついた。涼しげなのも道理だ。500年の歴史をもつ琉球王国の自然文化遺産だが、米軍が「蚊の繁殖を防止する」と称してむやみに伐ったため、イトバショウは絶滅に瀕しているとある。
床にぺたりと腰を下ろして満架の椿水引を眺めていると、何か心の中までその色に染まってくるような。
「長崎に、行ったことがありますか?」となみよさん。
彼の地では椿は隠れキリシタンの十字のシンボルで、それゆえ自然界には見られない四弁の椿が多く描かれる。なみよさんの空間は四弁・五弁の椿が入りまじり、霊気を発して部屋ごと天まで運んでいきそうだ。
初対面のフーとなみよさんが親しげに語らうのを見ていて、画家という人々の精神の自由を思った。同時にこの場面が今初めてのこととはとても思われないのである。いわゆる deja vu というのではない、今あるものは昔からいつもあったのだ、今後も常にあるのだとでもいうような。「永遠回帰」というのはこのことなんだろうか。
フーちゃんとは中学校、つまり10代に始まる交わりである。なみよさんと親しくさせていただいたのは30代以降だ。その合間の20代にO君との出会いが入る。銀座へは有楽町経由で来たのだが、有楽町は僕にとってはO君の街でもある。彼の職場があるので、会うのは大概ここだからだ。
今日もずっと昔に彼の教えてくれた Buono Buono で昼食のつもりだったが、ふと思いついて例のミルクワンタンの店を覗いてみた。案の定、残念ながら昼は閉まっている。予定を変更して麦飯と牛タンのランチにした。感じの良い美味しい店で、店員の大半が中国人である。
O君の先祖に幕末の画家・沖冠岳がいることは昨年書いた。御令兄は造形美術家で、O君自身、美術のセンスに富むことも先日記したとおり。
フーちゃんやなみよさんの絵を見て、彼なら何を感じるだろうか。なみよさんのことは既に知っているはずだけれど。
連絡してみよう。