私が小澤多留男先生に出会ったことは、私の人生における無二の幸運であった。生まれて初めて、心から師と呼べる人に出会ったからだ。それ以来、三十数年に渡り薫陶を受け、俳句を通して多くの仲間達と出会った。今まで句会に参加された方は、百名を超えているが、多留男先生から受け継いで今日まで句会を続けて来られたことに、私は心から感謝している。
多留男先生は元陸軍軍医として、最も過酷で無謀な戦いと言われているインパール作戦に参加した。爆撃で難聴になり、終生を戦争と共に生きたと言える句が、
インパールわが生涯の夏野かな 多留男
戦後日本鋼管病院に勤務した頃、師として秋元不死男の「氷海」に参加して活躍したそうである。後輩に鷹羽狩行、上田五千石がいる。私達は、秋元不死男の孫弟子なのである。
秋元不死男は戦前、新興俳句運動に加わり、反政府運動として弾圧され、投獄されたことがあり、戦後も伝統俳句とは一線を画していた西東三鬼、山口誓子などと交わり、多留男先生もそういう俳人たちの句会に参加していたそうである。
鳥わたるこきこきこきと罐切れば 不死男
多留男先生が退職して、故郷の真鶴に帰って開業し、俳句の先達として初心者に一から指導していただけるという話を聞き、誘われて私は入会した。
さて、宮沢賢治に「虔十林公園」という童話がある。その冒頭は「虔十はいつも繩の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青空をどこまでも翔かけて行く鷹を見付けては、はねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは、虔十はもう嬉しくて嬉しくてひとりでに笑えて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。」岩手をイーハトーブと呼んだように、虔十は呼び方を変えた賢治自身なのである。
最近、日本の植物学を構築した牧野富太郎のことをNHKの連続ドラマで放映したが、初めて出会った花に「あなたはようここに咲いているねえ」と嬉しそうに呼びかける万太郎は、賢治(虔十)と同じである。
花鳥諷詠、感動をもって今を詠うのが俳句の基本である。木々が芽吹き、花が咲き、太陽が昇り、どうと風が吹き、雨が大地を打つ。蝉が鳴き虫が鳴き、川がせせらぎ、海の波音、そういった様々な事象に感動する心を開かせるのが俳句なのである。そして、この感動する心を失ったら、俳人としてお払い箱であろう。
但し、花鳥諷詠とは言っても、人生観、生活の感慨、教訓、想像や夢などのフィクションを詠うことを否定してはならない。又、無季、季重ね、字余り、字足らず、川柳なども安易に否定してはならない。俳句の基本から外れてはいるが、太陽系における惑星であって、それらも俳句と考えるべきである。俳句の許容量は、広く大きいのだ。
空海が始めたと言われている四国遍路。私が国道を歩いていた時、車が止まり娘さんが降りて来て「お接待です」と言って千円札を貰ったことがある。又、道路で待っていたお婆さんから五個の甘夏を貰い、疲れていてその重さに閉口したことがあった。
いずれにしてもお接待は、誰にでも無報酬で自分のできる範囲で奉仕し、お遍路さんに喜んでもらう。お茶がないときは、心があれば唯の水でも良いのだ。無償の奉仕、そんなつもりで、私は句会や句集発行に携わってきた。
昭和五十五年、多留男会第一回句会の時に、俳句を手描きしたコピー紙を貰った。その時、手描きは大変だろうから、整理された活字印刷プリントを作って配ると良いなと思い、当時としては珍しい印刷もできるワープロを買った。そして、二回目から皆さんにプリントを配ってとても喜ばれた。それ以来、月一回の句会のために色々準備をしたが、みんなに喜んでもらうことが、私の喜びだった。それ以来、私は幸運にも健康に恵まれ、通算八〇〇回を数えるが、ほとんど句会を休んだことがない。
連歌の発句が独立して、江戸初期に俳諧が始まった。それ以来四〇〇年、日本の津々浦々で、俳諧(俳句)は、句座、句会として連綿と途切れることなく続いてきた。日本に市町村は千七百余あるから、句会も二千余はあるだろう。私達「多留男会」も句会という流れの一端を担っているのである。小さな流れではあり人は入れ替わっても、これからも多留男会が継続されることを願って止まない。
2024年 令和6年 睦月 小坂 釣舟
センリョウ(千両)