社会を見て、聞いて、感じる。

人生そのものがフィールドワーク。

12月21日(金) 今年最後の飲み会。

2018年12月23日 07時01分22秒 | 2018年

 3時、娘に起こされる。とはいっても泣いているわけではなく、ご機嫌で部屋を這い回っている。体調が悪化していないようで安心すると同時に、これは簡単には寝てくれそうだなと悟る。妻も起きているので、まずはお任せして私は眠る。

 4時半前になって妻が自力で寝かし付けることを断念し、私を起こす。1時間半も頑張ってくれたようだ。どうしても母乳の匂いがしてしまうので、夜間断乳をしながら母が赤ちゃんを寝かし付けるのはかなり難しいのだ。特に今日は難易度が高く、私が抱っこをしてからもなかなか(布団に置いても大丈夫なような)熟睡には至らなかった。結局私も30分以上時間を掛け、無事に娘を布団に寝かせたのは5時過ぎだった。

 8時起床。朝食はトーストとウインナー。妻がトーストを焼いてくれていたのだが、焼いているのを忘れてパンが丸焦げになっていた。

 午前中、妻が娘を連れて菊名にある内科(下痢の診察)と皮膚科(下痢に伴うおむつかぶれの診察)へ出掛ける。とはいっても、今朝になって娘はかなり元気になっているので、一応という感じだ。私はというと、洗濯が終わっていなかったので20分ほど後から追い掛けた。

菊名までは、ひたすら住宅街を歩く。この辺は土地の値段もかなり高いので、住んでいるのはお金持ちばかりだ。だから、停まっている車も高級車が多い。

 病院に到着すると、ちょうど診察は終わったところだった。私たちは下痢の原因について、先日私が鍵を忘れたせいで娘を30分以上寒空の下にいさせてしまったことだと考えていたのだが、先生曰くお腹を冷やしたくらいの下痢が2,3日続くことはなく、何かしらのウイルス的なものによる胃腸炎だろうとのことだった(ノロウイルスの可能性もあるらしい)。ただ、いずれにしても対策としては悪いものを出し切ってしまうことに尽きる、とのこと。薬は整腸剤を出して頂いた。また、これは全くの勉強不足だったのだが、下痢をしている間は母乳やミルクよりもお粥などを食べたほうが良いらしい。「大人が下痢した時に、お粥より牛乳を飲む人はいないでしょう?」だそうだ。なるほど、確かにその通りだ。これまで私は、お粥を含め離乳食は胃に負担が掛かるから、こういう時は母乳やミルクの割合を増やしたほうがいいと思っていた。危ない危ない。勉強になりました。皮膚科のほうではいつもの乳液を頂くと共に、たまに目元にできる赤い腫れを写真に撮っておいたものを見てもらったところ、じんましんだと教えて頂いた。ただ、それほどひどいものではないので、現状のままなら様子見で大丈夫らしい。

 薬局で薬を頂き、3人で家に帰る。

 私はまたすぐに家を出て、買い物がてらウォーキングに出掛ける。

 11時を過ぎてお腹も空いてきたので、「広島屋」で早めの昼食をとることにする。注文は、メンチカツ定食。料理を持ってきた女将さんが、「良かったらウインナーも食べてね」と微笑んでくれる。厨房から顔を出した大将も「良かったら食べて」と声を掛けてくれる。この圧倒的なホーム感は何だろう。メイン料理はメンチカツだったはずなのだが、ウインナーの美味しさが強く心に刻まれた。お会計の時に大将にお礼を言うと、「明日休みだからさ、早朝サービスだよ」と笑っていた。こんなに温かい気持ちになる食堂に出会えるとは。お店を出る時には、既に次は何を食べようかと考えていた。

 新横浜駅方面へ引き返す。途中、ドラッグストアで買い物をしてから、12時過ぎに帰宅。歩行距離は6.8キロだった。思っていたより歩いていた。

 午後、ここ数日の疲れが一気にやってくる。娘がお昼寝をしている間に少し仮眠をとることができたが、それでもやはり身体が重い。

 娘のお風呂を早めに済ませ、17時過ぎに家を出て職場の旧プロジェクトチームの飲み会(忘年会)へ出掛ける。このチームは部署や役職を超えて結成されていたもので、今は事務方のトップになった上司もいらっしゃるのだが、みんな気心の知れた関係なので、チームが解散した以降もこうして飲み会を継続している。何を言ってもいいし、何を言われても大丈夫な関係性が構築できているメンバーなのだ。今日は、1軒目では魚料理、2軒目では鳥料理を食べながら、真面目な話からとんでもない下衆な話まで、良い話も、悪い話も、良くも悪くもある話も、とにかくたくさん話をした。私にとっては、これが今年最後の飲み会だった。休みに入って以降もたくさんの職場の飲み会に誘って頂いてきたが、最後の飲み会がこの皆さんとの飲み会だったことを嬉しく思う。来年から、どうぞよろしくお願い致します。

 23時過ぎに帰宅。入浴を済ませ、妻とお喋りをして、さあそろそろ寝ようかと思った0時過ぎに、娘が起きて来る。ここからは明日の日記に続く。


12月20日(木) ナナメの夕暮れ。

2018年12月22日 17時14分33秒 | 2018年

 4時起床。娘はまだ眠っている。ではなぜこんな時間に起きたかというと、おそらく普段とは違う体勢で眠っていたからだと思う。昨晩は娘の寝相がファンキーで、いつの間にか妻の布団を通り越して私のところまで来てしまい、私の枕に突っ伏して眠ってしまった。枕を失った私は娘のすぐ隣で眠ろうとしたのだが、今度は私のほうへくっつくように寝返りをうち、布団の中央に陣取ってきた。相変わらず枕は抱えている。枕だけでなくスペースまで失った私は、布団の隅っこで小さくなって眠らなければならなかった。今考えれば空いている娘の布団に移動するという手もあったが、なぜかそうはしなかった。そのため首も腰も痛くなり、こんな時間に目が覚めてしまったのである。

 その後、私がうたた寝と覚醒を繰り返しているうちに娘が起きてくる。時刻は5時半になっていた。妻も起きてきてオムツを交換してくれ、やはり少し下痢気味だということで、麦茶を飲ませてから私が寝かし付けることになった。相変わらずかなりぐずっていたが、抱っこをしたらすぐに泣き止んで眠ってくれた。ただ、布団に置くのを2回失敗した。無事に布団で眠った頃には、時刻は6時を回っていた。娘が起きていた時間は実質的には40分くらいだったと思う。これで、ようやく私も自分の布団と枕で眠ることが出来るようになった。

 8時起床。たくさん眠れたからだろうか、娘のご機嫌はすこぶる良い。ただ、お腹の調子は相変わらず良くない。

 朝食はトースト。昨日元町の「ウチキパン」で買ってきたイギリスパンを、妻が贅沢サイズに切って焼いてくれた。内側のふわふわ感が増して美味しい。

 娘のお腹の具合が相変わらずなので、親子3人で安静にして過ごす。娘はお腹の調子の悪さと下痢に伴うおむつかぶれが原因でかなり機嫌が悪く、常に抱っこをせがんでくる状況なのだが、抱っこをすれば落ち着いておとなしくしているし、好きなテレビ番組を流すと楽しそうに見ている。熱もないし、食欲もかなりある(むしろ、普段以上かもしれない)。今のところ、病院に行く必要はないだろうと思われる。ただ、こまめな水分補給だけは忘れないように意識した。

 妻が買い物へ行っている間に、うどんを茹でて昼食にする。汁の素が付属していないタイプの麺だったので、生卵と醤油、ポン酢を使って自己流の「釜玉うどん」を作った(厳密には”釜”では茹でていないが)。茹でる時間も調味料の分量も適当だった割には、なかなか美味しいうどんになった。

 買い物から帰ってきた妻が、私の昼食用にコンビニのお弁当(塩豚カルビ弁当)を買ってきてくれたので、ありがたく頂く。昼食のダブルヘッダーである。

 午後も娘の調子は相変わらずで、ほとんどの時間、妻か私が抱っこをしていた。午前中にも1時間以上お昼寝が出来たし、午後も抱っこのままではあるがそれなりの時間を眠って過ごさせることが出来た。

 夕方になって、娘を早めのお風呂に入れていたら、湯船の中で漏らしてしまい、満足にお湯で身体を温めてあげることが出来なかった。急いで身体を洗い、シャワーで長めに身体を流してから、妻に預けた。その後、私はお風呂掃除をしてから出た。私の身体もそれほど温まらなかった。というか、寒かった。

 17時半前、退職する職場の同期の送別会に妻が出掛ける。さて、今夜のワンオペは大変だぞと意気込んでいたのだが、確かに機嫌は悪いし甘えん坊モードも強いものの、離乳食(今夜はおかゆだけにした)もスムーズに食べ、ミルクを飲んだらすぐに眠ってしまった。歯磨きをするタイミングを逃すほどスムーズな入眠だった。時刻はまだ19時だ。

 昼食がダブルヘッダーだったので、夕食は抜き。

 20時過ぎに一度娘が起きてきたが、20分ほどでまた眠ってしまった。水分補給とおむつ交換が出来たのでちょうど良かったが、またしても歯磨きのタイミングを逃してしまった。

 22時半前にも娘が起きて来る。おむつを見たが、この2時間の間では何も出ていなかった。そして、また抱っこをしたら10分ほどで眠ってくれた。今日は随分小刻みだ。

 時折娘が起きてきてはいるが、それでも1人の時間が長かったので、久しぶりにゆっくりと本を読んだ。漫才師・オードリーの若林さんが書いた『ナナメの夕暮れ』だ。同じタイミングで購入した南海キャンディーズの山ちゃんの『天才はあきらめた』では「嫉妬心との向き合い方、活用の仕方」について考えさせられたが、『ナナメの夕暮れ』では「否定的な考え方やシニカルさがもたらす生きづらさ」について考えさせれた。特に、ハッと思わされた文章がある。

自分の生き辛さの原因のほとんどが、他人の否定的な視線への恐怖だった。その視線を殺すには、まず自分が”他人への否定的な目線”をやめるしかない。

 「そうだ!」と思った。私が娘をベビーカーに乗せて電車移動するのを極力避けるのは、自分に子どもができるまでベビーカーで乗ってくる人たちに(若干ではあるが)否定的な感情を抱いていたからだ。白い服を着ないのは、「白い服を着ている人はナルシスト」だと馬鹿にしているからだ。結婚式で徹底的に料理にこだわったのは、人の結婚式で料理にお金を掛けていないことを思い切り皮肉っていたからだ。このような例を挙げたらきりがない。その時々に抱いた否定的な感情が、ブーメランとなって自分自身に降りかかってきている。そういう感情をなくす、もしくは減らす努力をしたら、生きやすくなるのか。これは、挑戦してみる価値がありそうだ。もちろん、そう簡単なことではないだろうが。


12月19日(水) ブランドの器。

2018年12月20日 09時10分30秒 | 2018年

 4時半起床。夜間断乳3晩目である。昨晩もそうだったのだが、目が覚めてすぐの娘は落ち着いていて、妻の近くでちょこんと座っていた。これは昨日より楽なのではないかという期待が膨らむ。しかし、世の中はそんなに甘くなかった。時間が経つに連れてご機嫌が悪化していく。昨晩同様に妻に寝室から出てもらってからもかなりぐずり、(しばらく抱っこをしなかったせいもあってか)寝かしつけるまでに20分くらい掛かった。やはり、最終的には抱っこをしないと眠らない。まだまだ先は長そうだ。

 5時半過ぎに再度眠り、8時過ぎに起床。朝食は豚汁と娘の離乳食の残り。

 昼前から、妻と娘と一緒にお出掛け。目的地は、元町にある「familiar」(ファミリア)。娘が産まれる前に、母が私と妻を連れていってくれて、あれこれと必要なベビー用品を買ってくれたのだが、その中で使わなかったもの(布おむつ)がある。ファミリアでは、未開封の場合に限ってではあるが、そういった未使用品を別の商品と交換してくれるサービスがあるので、今回はそれを活用して何か新しいものを手に入れようという魂胆なのだ。

 菊名駅まで歩き、東横線に乗って、みなとみらい線の終点である元町・中華街駅まで乗車する。菊名駅では、東横線90周年を記念したラッピング車両(青ガエル塗装)を見ることが出来た。個人的にはこの色合いはかなりカッコいいと思う。どうせなら、もっとこの塗装の車両を増やして常用すればいいのに。

 元町商店街を入ってすぐのところに「familiar」はあった。「未使用品を別のものと交換できると伺ったんですが…」。恐る恐る店員さんに布おむつ一式を見せると、笑顔で「大丈夫ですよ」と言ってくれた。さすがはファミリア。神対応だ。これで、17,000円分の商品を選ぶことが出来る。妻と一緒に商品を見て回り、ワンピース1着と靴(スニーカー)を1足選んだ(4,000円ほど足が出た)。今回は比較的すぐに意見が合ったので良かった。妻が店員さんとやりとりをしている間、私は娘とベビースペースで遊んでいたのだが、店員さんがとても優しくて、色々と話しかけてくれたり、おもちゃを持ってきてくれたりした。やっぱり、さすがはファミリアだなと感心させられた。

 ファミリアの裏にある「ウチキパン」で、昼食用のパンを購入。その後、商店街を1周軽く見て回る。

 桜木町で行きたいお店があるという妻と別れ、娘と一緒に一足早く帰宅。すぐに離乳食を食べさせようと思ったのだが、家の前まで来て気付く。鍵を持って出なかったのだ。すぐに妻に電話をすると、ちょうど今から帰るところだというので一安心。しかし、それでも30分以上は待たなければいけない。娘は眠っているが、ちょうど今日は家の前の道でガス管の工事が行われており、騒がしい。仕方がないので近所のマンションの敷地まで避難し、日当たりの良いところで時間をつぶした。

 帰ってきた妻に鍵を開けてもらい、14時半前に無事家に入る。しかし、身体がかなり冷えていて、ホットミルクを飲んでもまだ寒気がした。これだったら、立ち止まらずに歩いていれば良かった。

 昼食は「ウチキパン」で購入してきたパン。

 16時過ぎから、ウォーキングに出掛ける。昨日とは反対に、新横浜駅の反対口から小机駅方面へ歩く。あまりイメージはないかもしれないが、新横浜には今もラブホテルが数軒残っている。「今も残っている」と書いたのは、以前はもっとたくさんのラブホテルがあったからである。ラブホテル街といえる地域もあった。それが近年になって、どんどんマンションに変わっていっている。だから今は、マンション群の中にぽつんとラブホテルがあるという面白い光景が見られる。以前、「うちのマンションの近くにラブホテルがあって迷惑」というような会話を耳にしたことがあるが、「いやいや、あんたの住んでるそのマンションの場所にも元々はきっとラブホテルがあったんだよ」と教えてあげたい衝動に駆られた。そもそも、ラブホテルの何が迷惑なのかわからないけれど。しかしまあ、児童相談所の建設に反対している南青山の心の貧しい人々に比べればかわいいものだ。

 大通りに出て歩道橋を渡る時、夕日がとても綺麗に見えた。寒さはつらいが、この時間帯にウォーキングをするのも悪くない。

 小机駅の手前にある大判焼のお店「おすとあんでる」で、大判焼を3つ(小倉、カスタード、いちごあん)を購入し、家に帰る。今日の歩いた距離は4.5キロ。時間はちょうど1時間だった(1時間のラジオをちょうど聴き終えたところだったので間違いない)。

 帰宅したのは17時前。妻から、娘がお腹を壊しているようだと聞く。排便の回数が増えておむつかぶれもしているようで、本人はかなり不機嫌だ。やはり、私が鍵を忘れてしまって、待っている間に身体が冷えてしまったのだろうか。申し訳ない。ただ、熱はなく、食欲も普通にあるし、お風呂でも元気いっぱいだったので、少し安心した。

 夕食は唐揚げ。妻が自家製のタレで揚げたらしく、美味しい。

 娘が眠った後で、デザートに大判焼を食べる。いちご餡が思っていた以上に美味しい。

 日付が変わる前に就寝。


12月18日(火) 夜間断乳の難しさ。

2018年12月19日 21時34分08秒 | 2018年

 4時半起床。夜間断乳2晩目、時間こそ違えど、娘は昨日に引き続きかなりぐずっていた。しばらく抱っこはせずに自分で寝られるように待ってみたのだが、5時半頃になっても眠る様子はない。そこで妻が「もう朝だっていうことにして(おっぱいをあげても)いいかな」と言うので、「中途半端なことはするな」と、寝室から出てもらう。昔、学校の部活で顧問からよく言われた「やる気がないなら帰れ!」的な感じである。ただ部活とは違い、今日は本当に妻が娘の前から見えなくなったほうが都合がよく、母乳の要求先を見失った娘はおとなしくなり、10分も掛からずに眠ってくれた。

 6時前に私と妻も布団に入り、9時半頃まで眠る。起きてきた娘もご機嫌だった。

 朝食は、トーストに焼肉のたれを塗ってみる。ご飯にかけたら美味しいのだから、パンでもきっと…と思ったのだが、ちょっと違った。

 昼食は、妻が焼いたバナナケーキ。以前に作ってくれたものは生地にバナナが練り込まれていたが、今回はそのまま丸ごと入っている。斬新な発想だ。しかも驚くことに、このほうが美味しい。

 妻と娘とお散歩に出かけ、途中で引き返す彼女たちを見送ってからウォーキングに移行する。最近は新経路開拓に余念がなかったが、今日はシンプルに岸根公園から東神奈川駅までの定番ルートを歩いた。距離にすると約4キロ。これぐらいの距離だと、もはや物足りなさを感じてしまう。

 東神奈川駅前の喫茶店「アップ」で、おやつ代わりに卵サンドを食べる。飲み物はいつものアイスミルクティーではなく、ホットのミルクティーを選んだ。アイスミルクティーは甘いが、ホットのミルクティーはそのままでは甘くなく(当たり前か)、卓上のザラメを入れて味を調整する。卵サンドはマヨネーズ強めで、私の好きなタイプの濃いめの味付けだった。次からは、サンドイッチ系を攻めてみようかと思わされる美味しさだった。

サンドイッチにもいつものサラダがついてくる。ここのサラダは美味しいので、嬉しい。

デザートも、いつも通りアイスクリームがつく。

 帰りはバスに乗り、17時前に帰宅。

 夕食は豚汁と焼き魚(アジ)。豚汁のありがたみを強く感じる季節になってきた。

 お風呂に入る前後に多いのだが、娘は洗面所に行って引き出しからタオルを引っ張り出すのが大好きなので、ドアを開けておく際には椅子でバリケードを作って侵入を阻止するのだが、最近は平気でそれを破って侵入を成功させている。時には椅子を歩行器代わりにしてすごいスピードで歩いていることもある。

 こんな調子なので、自由に動き回れるスペースもどんどん拡大させている。今では部屋の端から端まで、居間の生活スペースの大半が彼女の陣地になっている。また、興味を示すおもちゃも増えてきて、最近は人形がお気に入りのようだ。親としてはこういう成長はもちろん嬉しいし、単純に一緒に遊ぶ立場としても遊びのバリエーションが増えるので楽しい。

 23時過ぎに就寝。0時を過ぎた頃に娘が起きたらしいが、私はいつも通り気付かずに眠っていた。妻によると、少しぐずったものの、添い寝をしているうちに再度眠ったそうだ。


12月17日(月) 大人げなく、涙腺崩壊。

2018年12月18日 18時59分22秒 | 2018年

 8時半起床。朝食は、お菓子のカントリーマウムをふたつほど食べる。

 午前中、録画しておいた「しくじり先生」の南海キャンディーズの回を観る。私は山ちゃんのラジオ「山里亮太の不毛な議論」(TBSラジオ)が大好きなこともあって、この放送をとても楽しみにしていた。しくじりのテーマは、嫉妬。嫉妬が原因でコンビ仲が悪化し、一時は共演NGまでいった山ちゃんとしずちゃんのしくじり(しくじったのは主に山ちゃんだが)が題材になっていた。山ちゃんのくずっぷりに驚き、めちゃくちゃ笑ったが、一方で嫉妬心との向き合い方やその活用の仕方については本当に参考になったし、自分に置き換えてみて反省する点や今後に活かせそうな点が数多くあった。更に、最後に山ちゃんが涙ながらにしずちゃんに謝罪したシーンでは、思わずこちらも涙してしまった。一緒に見ていた妻も同じだった。彼らが今は心を通じ合い、一緒に楽しく漫才が出来るようになって本当に良かったと思う。

 昼食は妻のつけ麺を少しもらう。

 妻が娘を連れてショッピングに出掛けるのに合わせて家を出て、私はウォーキングへ出掛ける。新横浜駅近くで妻と娘と別れ、菊名駅方面へ。菊名駅を過ぎたところで、温かいミルクセーキを買って少し休憩する。歩いているだけだと、なかなか身体が温まらないのだ。

 今日中に出したい郵便物があって、家を出たところから歩きながら郵便ポストを探していたのだが、このあたりは集荷が1日2回で、2回目も14時前後と早いので、今から出しても間に合わない。そのため、結局近くにある大きな郵便局(港北郵便局)まで行くことになった。そこのポストだと、19時まで1時間おきに集荷があるようだ。

 せっかくなので新しいルートを歩きたいと思い、以前に何度かバスを使って行ったショッピングモール(トレッサ横浜)を目標に定めて歩いてみる。バスに結構乗った記憶があったのだが、案外歩いてもそれほど時間が掛からないことがわかった。

 そこから更にバス通りに沿って先へ進む。これなら、いつでもバスに乗って新横浜へ戻ることが出来る。しかし、どこで間違えたのか、新横浜方面へ向かうバスが通る道を外れてしまい、気付いた時には鶴見駅とよくわからない地名をつなぐバスしか走っていない道を歩いていた。

 土地勘が全くない場所なので、何となく自宅方面の方向を目指して歩いていく。地図アプリで現在地を確認するなんて野暮なことはしない。すると、30分ほど歩いたところで、新横浜駅行きがあるバス停を見つけた。これはバスに乗ってから気付いたのだが、いつの間にかこれまで何度も歩いている妙蓮寺駅の近くまで戻ってきていたのだった。

 バスで新横浜駅へ戻り、17時過ぎに帰宅。体感としては10キロ以上歩いたような疲れがあるが、ウォーキングアプリを見ると6.6キロしか歩いていなかった。アップダウンの多い道だったこともあるが、聴いていたラジオがつまらなかったのも疲れを感じた原因だと思う。今日聴いていた「三四郎のオールナイトニッポン0」は普段は面白いのだが、今日はゲストのなかやまきんに君が2時間滑り倒していて、最初はそのつまらなさを笑うというスタンスでいられたものの、30分ほどした頃から本当に笑えなかった。

 本当はウォーキング中にどこかで食事をとろうと思っていた(だから昼食もほとんど食べなかった)のだが、結局歩いただけで帰ってきてしまった。そんな話を妻にしていたら、買っておいてくれたハーゲンダッツを食べさせてくれた。ありがたい。

 夕食は、昨日の焼肉で残ったお肉を使った料理たち。おそらく一番良いお肉だったであろう鹿児島和牛の分厚いところはステーキ風に、豚トロは大根と一緒に炒めてあった。こういう食べ方も美味しい。

 娘が眠ってから、妻と一緒に「西郷どん」を2話連続(最終回とその1回前)、2人で泣きながら一気に観た。明治維新の立役者でありながらそれに取り残された武士たちの心に最後まで寄り添った西郷と、欧米列強との圧倒的な差を痛感しそれを埋めようとなりふり構わなかった大久保の、それぞれの信念、覚悟、そして最期。どちらの生き方も、とてつもなくかっこ良かった。こういう人たちが今の日本の礎を築いたのかと思うと、なんだか誇らしい気持ちにもなった。

 恥ずかしい話、私は歴史に全く疎いので大河ドラマを最後まで視聴したのはこれが初めてだったのだが、こんなに面白いものだとは思わなかった。いつの間にか、西郷どんや周囲の魅力溢れる人たちにどんどん惹きこまれていった。そして、鹿児島や奄美大島に行ってみたくもなった。一方で、明治維新の立役者たちが今の日本を見たらどう思うだろうかと考えさせられもした。今となっては国を変える手段として武力行使は選択肢になりえないのかもしれないが、そもそも彼らのような気概を持った人間は今も存在するのだろうか。もし存在したとして、それを表現、実践する場や方法はあるのだろうか。あるとしたら、それは一体何なのだろうか。そう考えると、あまり前向きな答えは思いつかない。

 しかし、彼らの生きた時代に比べてありがたいのは、(日本においては)国家やイデオロギーのために個人があるという考え方がかなり薄まっていることである。国のために、忠義のために死ねるという人はほとんどいないだろう。それはとても良いことだと思う(まあ、最近はその代わりに企業に命を捧げる、というか奪われる人が増えているが…)。国のために何が出来るかではなく、国が何をしてくれるのかという姿勢は一見我儘なように見えるが、健全なあり方だと私は思う。ただ、だからといって過去の人たちの生き方を否定することはない。彼らのおかげで今の日本がある。胸を張って良い世の中とは言えないが、少なくとも幸せに生きられる土台はある。今の私たちの生活が、かつて国作りに命を賭けた人々のおかげで存在しているということを、強く実感させられる。私にとって初の大河ドラマは、そんな体験だった。

 ちょっと大袈裟だろうか。