作家の栗本薫が亡くなった。享年56歳。膵臓癌だったとか。驚きながらも、冷静に受け止めている自分が意外だ。慎んでご冥福をお祈り致します。
かつて、僕は栗本薫の小説を読み漁り、好きな作家の筆頭に挙げていた時もあったのだが、ここ何年かは熱心な読者とは言えなかった。それどころか、彼女の作品にはなんとなく距離を置いていた。とはいえ、やはりそれなりにショックである。栗本薫の作品に興味が薄れていただけに余計だ。訃報に接して、なんというか、彼女に対して悪い事をしたような気がしている。
栗本薫の小説をポツリポツリと読み始めたのは、今から20年ちょっと前だろうか。「この人は凄い」と初めて思ったのは、『十二ヶ月』という短編集を読んだ時だ。ミステリーからハードボイルド、時代物に青春小説、SF風から私小説風に至るまで、同じ人が書いたとは思えないバラエティ豊かな短編が12編収められたこの短編集は、栗本薫という作家の守備範囲の広さ、素養の深さ、そして探究心の旺盛さを、十二分に思い知らされる傑作である。凄い人がいるもんだな、と驚嘆した僕は、それ以来栗本薫の小説を読み漁るようになった。そして、行き着いたのが『魔界水滸伝』である。
ま、いわゆる伝奇ファンタジーだ。邪悪な神々(宇宙生命体?)と、古来から地球で生き続けてきた先住民及び人間たちとの戦いを描いた長編である。とにかく面白いし、スケールがデカい。冗談ではなく、夜の更けるのも忘れて読み耽ったものだ。この手の伝奇物を読むのは初めてだったせいもあり、人間ではない生命体と人間たちとの戦い、というコンセプトも新鮮だった。ここに登場する邪悪な神々は、H・P・ラブクラフトというアメリカの作家の作品に登場するキャラクターだと聞いて、一時ラブクラフトやその門下による『クトゥルー神話シリーズ』も読んでいた事もある。もちろん、そんな邪神たち以外にも、栗本薫が生み出した登場人物たちも魅力的で、ストーリー展開といい、コンセプトといい、第一級のエンタテインメントであった。
また、栗本薫のもうひとつの傑作が伊集院大介だろう。彼女の推理小説に登場する名探偵だ。名探偵だから、当然頭脳明晰なのだが、探偵らしからぬ漂々とした佇まいである。が、眼鏡の奥の瞳は優しく暖かい。この伊集院大介を主人公にした『優しい密室』『天狼星』『絃の聖域』『鬼面の研究』『仮面舞踏会』といった作品は、どれもお薦めだ。決して、伊集院大介のキャラクターに寄りかかることなく、ストーリーもトリックも構成も見事な本格ミステリーである。
さらに、栗本薫の得意分野といえば、『真夜中の天使』『翼あるもの』といった作品に代表される、美しく才能ある者たちの孤独や悲しみをテーマにした、一種の青春小説とも呼べるジャンルだろう。『真夜中の天使』は、美少年が見い出され芸能界にデビューするが、その美しさゆえ周囲の者たちを破滅させていく話で、青春小説とは言い難い気もするが(笑)、要するに、一部のマニアの間では“やおい”と呼ばれているタイプの小説でもある。確かに、初めて読んだ時は、それなりに衝撃的でした(笑)
栗本薫自身、実は美少年好きだったようで、様々な小説を書き分けていたようでも、そこいらの趣味が見え隠れするのが特徴と言えば特徴であった。横溝正史みたいな耽美的な小説も多く書いている。
あと、なんといっても栗本薫を語る時に忘れてならないのは、『グイン・サーガ』であろう。100巻を超えても今尚未完の超大河ヒロイック・ファンタジーだ。一人の作家が書いたものとしては最長の小説として、ギネスに載ってるとか載ってないとか。彼女は、この超大作を未完のままで、世を去ってしまったことになる。
と、こういった栗本作品を、僕は読み漁っていた、20代後半から30代前半だったのである。『グイン・サーガ』は、最初の5巻くらいとか読んでないけど(汗) しかも後追いで(滝汗) 本当に、凄い人だと思っていたし、実際凄い人なんだけど、ある時期から徐々に熱が冷めていった。その理由は大きく分けると3つある。
ひとつは、その作品が観念的になり始めた事だ。『魔界水滸伝』にしても、巻が進むにつれ、最初の頃の血湧き肉踊るストーリー展開は影を潜め、登場人物がその世界観や歴史観を語ったり論じたりする話になってしまった。禅問答と言ってもいい。異次元の世界を理屈で説明されても面白くないのだ。さては栗本女史、ネタに詰まったか、なんて思ったりなんかして(笑)
ふたつめは、前述したけど、その美少年趣味が、やたらと前面に出てくるようになった事だ。ストーリーも何もなく、男が男に溺れる様を、事細かに描写する小説が目立ち始めた。好きな人にはいいだろうけど、僕は男色には全く興味ないので、美少年同士のベッドシーンなんて、気持ち悪いだけなのだ。
そしてみっつめ、それは伊集院大介に頼りきってしまうようになった事だ。ストーリーの中に伊集院がいるのではなく、伊集院のキャラクターで成り立つ小説が増えてきた。魅力的なキャラクターを生み出した作家が陥る落とし穴と思うが、栗本薫の場合、それを確信犯的にやってたような気がする。つまり、伊集院大介を偏愛するあまり、伊集院大介さえ出てくれば、それで満足という感じ。なにしろ、自分の息子に“大介”と名づけたくらい、伊集院大介に惚れ込んでいた栗本女史である。ファンの要求云々以前に、自分が伊集院を見たいのだ。ストーリーは二の次。これではついていけない。まぁ、そういった“伊集院モノ”が、それなりのクォリティを保っているのが救いではあるが。
それと、栗本女史自身が、作家という仕事を離れて、音楽活動をしたりミュージカルを作ったり、という活動が目立つようになったのも、僕のとっての“栗本離れ”に拍車をかけたような気がする。多才なのは結構だが、作家である以上、小説を書くという行為に集中して欲しいのだ。ま、作家に限らず、ミュージシャンでもスポーツ選手でも、本業以外にあれこれ手を出す人を、僕はあまり好きではない。
この栗本薫という人、かつてテレビの『ヒントでピント』にレギュラー出演していた事でも分かるように、目立ちたがりでもある。また、「ある曲を気に入ると、何十回とその曲ばかり連続再生して聴きまくり、そのうち飽きて聴くのもイヤになる」という発言でも察せられるが、偏執狂の割には飽きっぽい、という人でもある。ただ、その何十回もヘビー・ローテーションした曲が、ジャーニーの「セパレイト・ウェイズ」やワム!の「ケアレス・ウィスパー」だった、なんて話を聞くと、結構俗物じゃん、なんて思ったりもするけど。自分が書いたのと同じ事件が実際に起きた、と聞いて、わぁ~すごい、第六感かなぁ、呼ばれてるよねぇ~、なんてはしゃいだ発言をしてるのを見ても、結局自分大好きの勘違い女、という見方も出来るかもしれない。そういうのも、栗本薫の愛すべき部分なのだろう。僕は苦手だけど(笑)
反面、中島梓名義でのエッセーや文芸評論を読むと、深く頷いてしまうとこもあったりして、確かに只者ではなかった。敢えて、他人と違う角度から物事を見る、という姿勢は大切だ。そして、誤解を恐れずに自分の考えを述べることも。けど、「セパレイト・ウェイズ」が好き、とは言えないなぁ(笑) でも、「食べる事に執着はないが、料理には自信がある」という発言には、美学を感じます。
ま、結論すると、個性的な人であった、という事になるのか(笑)
それにしても、56歳とは若過ぎる。もし、この事をきっかけに、栗本薫を読んでみようという人がいたら、ま、なんでもいいけど、頭脳明晰なデブと男を誘惑するのが趣味という、2人の大食い女を探偵役にした『グルメを料理する十の方法』なんて、誰もお薦めしないだろうから、敢えてお薦めしたい(笑)