本日は、日勤でしたが夏季休暇をとってお休み。昨日の非番から日曜日まで久々の休みとなりますが日曜の夜は市の防災訓練、金、土でなんとか休みらしい休みにしたいと考えております。
ホームページのアップに向けて平泉方面に早朝から出向く、妻も休みということで運転手として付き合せ、まずは知り合いのサイトで話題となった東山町の菅公夫人の史跡を訪ねる。ここは菅原道真公の何番目かの妻の墓所ということで、最近新聞等でも取り上げられている隠れた史跡でもあります。大宰府に左遷された道真公、一族の多くは各地に配流、夫人も子供を連れて陸奥国へ下向したとされ、現前沢町の母体で死去、その墓は少し南に下った東山町にあって長く地元で伝承と共に守られていたといわれております。
つづいて平泉、中尊寺、高館、柳之御所等を取材、往時の平泉は人口10万とも15万ともいわれておりますが、北上川近くにあっておそらくは度々洪水に襲われたのではないのか、また10万を越える人口を有したとされる町並み、どう考えても京都並みの規模の町が存在したとされるイメージがわかない、毛越寺あたりから衣川あたりか、その辺までかなりの幅の町並みがなければ考えられない、しかも源頼朝率いる鎌倉軍が攻め入った後は平泉に住んでいた10万を越える民はどこへいったのか、難民となって逃げてもかなりの数である、う~ん、わからない・・
いずれにしてもまずは藤原清衛時代から奥州炎伝にアップと考えております。
ホームページのアップに向けて平泉方面に早朝から出向く、妻も休みということで運転手として付き合せ、まずは知り合いのサイトで話題となった東山町の菅公夫人の史跡を訪ねる。ここは菅原道真公の何番目かの妻の墓所ということで、最近新聞等でも取り上げられている隠れた史跡でもあります。大宰府に左遷された道真公、一族の多くは各地に配流、夫人も子供を連れて陸奥国へ下向したとされ、現前沢町の母体で死去、その墓は少し南に下った東山町にあって長く地元で伝承と共に守られていたといわれております。
つづいて平泉、中尊寺、高館、柳之御所等を取材、往時の平泉は人口10万とも15万ともいわれておりますが、北上川近くにあっておそらくは度々洪水に襲われたのではないのか、また10万を越える人口を有したとされる町並み、どう考えても京都並みの規模の町が存在したとされるイメージがわかない、毛越寺あたりから衣川あたりか、その辺までかなりの幅の町並みがなければ考えられない、しかも源頼朝率いる鎌倉軍が攻め入った後は平泉に住んでいた10万を越える民はどこへいったのか、難民となって逃げてもかなりの数である、う~ん、わからない・・
いずれにしてもまずは藤原清衛時代から奥州炎伝にアップと考えております。