穏やかな一日ながら、またしても仕事上気になることや循環器検診で再検査の通知をいただいたりと、少し気分が沈みがちである。
こんな日は、山野を廻ってまだ見ぬ館跡に夢中になれば少しは現実逃避になるのか?そんな思いで二つ程館跡探訪として出かけて参りました。
今回は附馬牛町・・・・
○ 蝦夷塚森
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/8d/a7306755794d827041b40b0db6e45145.jpg)
附馬牛町和野にあるとされる「蝦夷塚森」、例の資料には塚を中心に一大集落が形成されていたのでは・・・との考察と共に蝦夷塚と称される塚があり、遠野市内に存在する塚としては最大とある。(長さ88メートル、高さ16.5メートル)
上の画像の杉林の中に塚はありますが、山野に挟まれた台地があり、林内は平坦で、一部低い段状の形状がみられ、画像中央の草地は以前は水田であったとのこと、草地の下部一帯も古の集落の跡との見解でもあります。
塚
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/9d/e4c8097ee2ba6434bbb662a0d584b61e.jpg)
平坦な杉林内に忽然と現れる姿、確かに大きい・・・小山にも見えるが、山野に挟まれているとはいえ、明らかに独立した形状である。
塚の下部は平坦地であり、集落はその下部、南側に展開されていただろうと推測されます。
いずれ口伝では蝦夷塚のみ、蝦夷時代の遺物なのか、安倍時代のものなのかは不明ではありますが、阿曾沼時代以前のものであるのは確かかもしれません。
○ 伝・火渡玄淨広家の墓
遠野阿曾沼重臣、その支族ともいわれ、附馬牛を領していた火渡氏、慶長5年(1600)での遠野の政変(阿曾沼主家、阿曾沼広長が気仙へ追放される)で、遠野をほぼ制圧した鱒沢広勝、上野広吉、平清水景頼に異を唱え、恭順に従わず己の館、火渡館に篭城して遠野軍を迎え撃つも、武運つたなく敗れ去った火渡玄淨の墓地があると伝えられている。
(火渡氏、火渡館の攻防戦等に関しては検索サイト等にて火渡館でヒットします)
蝦夷塚森の入口近くに存在すると資料に記述されておりますが、この墓の存在は結構早くから知っていたものの、場所の特定が出来ずにいたこともありますが、和野方面に行く用事もなくて、いつしか忘れておりました・・・・汗・・・今回、例の資料で確認したということ、蝦夷塚森至近ということもあって、共に訪ねたものです。
?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/57/f6294596773c78dba8835a6c57e2236f.jpg)
画像の墓所、実はどれが火渡玄淨の墓石なのかは不明です。
道を挟んでそれぞれ3箇所に墓石群があり、さらに林道の上方にも墓石が確認できます。
ほとんどは江戸時代の年号が刻まれておりますし、一部読めないものもございますが、雰囲気からして江戸期後半のものと思われます。
至近のお宅を訪ねましたが留守でもあり、また穏やかな日ではありましたが地域に誰の姿も見えず・・・・誰か墓石の位置等ご存知の方がおられましたら、ご教授願います。
無論、後日に再訪して聴取する予定ではありますが・・・・おそらく・・。
辛い山野徘徊といった場面とならなかった蝦夷塚森探訪、火渡氏絡みで、同町の根岸集落の上方の山野にあるという根岸館跡も探訪と考えていたが、その進入口を探るべく旧県道跡から眺め、よしっ、行くぞと気合を入れてヘルメットを被り、歩き出すと、長男からメールが・・・・「迎えに来て・・」・・・どうやら学校に課外授業で登校していたらしい・・・しかも床屋にも連れて行ってくれとのこと・・・涙・・・・ということで、根岸館跡の探訪は後日となりました。
根岸館跡があるという山野
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/09/9d6f0d99af6d44a556830b977558610f.jpg)
火渡館以前に火渡氏が居たと考察されている根岸館(仮称)・・・図面でみる限り、さらに調査された郷土史家の先生のコメントでは、結構遺構が原型のまま残され、しかも規模も火渡館と遜色はないという感想、これは是非に早期に探訪しなければと思うところです。
期待度特Aといったところですね。
おまけ1
附馬牛に来たら、ついでではありますが安居台の猿ヶ石川にいる白鳥をみなければならない・・・・笑・・・。
まだ数は揃っていないという雰囲気ながらも鴨、白鳥共に十数羽位か・・・・。
動きのある絵は撮れなかったけど一応、3枚程・・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/02/384d207367d8b028c0ad479e057aa995.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/59/a6b74c3c03169b62f9d3903927bf9628.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/f0/da60141ee87a8c53704dfb8962ef183a.jpg)
どうも白鳥をみると「志村けん」を思い出すんですよ・・・・笑
おまけ2
息子を床屋に連れて行っての帰り・・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/ff/51bfc1642aaa8034df1d91cf0d145611.jpg)
おまけ3
ネネの下半身
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/ed/f05b3c55d9b84a233e386edf81954f20.jpg)
こんな日は、山野を廻ってまだ見ぬ館跡に夢中になれば少しは現実逃避になるのか?そんな思いで二つ程館跡探訪として出かけて参りました。
今回は附馬牛町・・・・
○ 蝦夷塚森
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/8d/a7306755794d827041b40b0db6e45145.jpg)
附馬牛町和野にあるとされる「蝦夷塚森」、例の資料には塚を中心に一大集落が形成されていたのでは・・・との考察と共に蝦夷塚と称される塚があり、遠野市内に存在する塚としては最大とある。(長さ88メートル、高さ16.5メートル)
上の画像の杉林の中に塚はありますが、山野に挟まれた台地があり、林内は平坦で、一部低い段状の形状がみられ、画像中央の草地は以前は水田であったとのこと、草地の下部一帯も古の集落の跡との見解でもあります。
塚
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/9d/e4c8097ee2ba6434bbb662a0d584b61e.jpg)
平坦な杉林内に忽然と現れる姿、確かに大きい・・・小山にも見えるが、山野に挟まれているとはいえ、明らかに独立した形状である。
塚の下部は平坦地であり、集落はその下部、南側に展開されていただろうと推測されます。
いずれ口伝では蝦夷塚のみ、蝦夷時代の遺物なのか、安倍時代のものなのかは不明ではありますが、阿曾沼時代以前のものであるのは確かかもしれません。
○ 伝・火渡玄淨広家の墓
遠野阿曾沼重臣、その支族ともいわれ、附馬牛を領していた火渡氏、慶長5年(1600)での遠野の政変(阿曾沼主家、阿曾沼広長が気仙へ追放される)で、遠野をほぼ制圧した鱒沢広勝、上野広吉、平清水景頼に異を唱え、恭順に従わず己の館、火渡館に篭城して遠野軍を迎え撃つも、武運つたなく敗れ去った火渡玄淨の墓地があると伝えられている。
(火渡氏、火渡館の攻防戦等に関しては検索サイト等にて火渡館でヒットします)
蝦夷塚森の入口近くに存在すると資料に記述されておりますが、この墓の存在は結構早くから知っていたものの、場所の特定が出来ずにいたこともありますが、和野方面に行く用事もなくて、いつしか忘れておりました・・・・汗・・・今回、例の資料で確認したということ、蝦夷塚森至近ということもあって、共に訪ねたものです。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/57/f6294596773c78dba8835a6c57e2236f.jpg)
画像の墓所、実はどれが火渡玄淨の墓石なのかは不明です。
道を挟んでそれぞれ3箇所に墓石群があり、さらに林道の上方にも墓石が確認できます。
ほとんどは江戸時代の年号が刻まれておりますし、一部読めないものもございますが、雰囲気からして江戸期後半のものと思われます。
至近のお宅を訪ねましたが留守でもあり、また穏やかな日ではありましたが地域に誰の姿も見えず・・・・誰か墓石の位置等ご存知の方がおられましたら、ご教授願います。
無論、後日に再訪して聴取する予定ではありますが・・・・おそらく・・。
辛い山野徘徊といった場面とならなかった蝦夷塚森探訪、火渡氏絡みで、同町の根岸集落の上方の山野にあるという根岸館跡も探訪と考えていたが、その進入口を探るべく旧県道跡から眺め、よしっ、行くぞと気合を入れてヘルメットを被り、歩き出すと、長男からメールが・・・・「迎えに来て・・」・・・どうやら学校に課外授業で登校していたらしい・・・しかも床屋にも連れて行ってくれとのこと・・・涙・・・・ということで、根岸館跡の探訪は後日となりました。
根岸館跡があるという山野
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/09/9d6f0d99af6d44a556830b977558610f.jpg)
火渡館以前に火渡氏が居たと考察されている根岸館(仮称)・・・図面でみる限り、さらに調査された郷土史家の先生のコメントでは、結構遺構が原型のまま残され、しかも規模も火渡館と遜色はないという感想、これは是非に早期に探訪しなければと思うところです。
期待度特Aといったところですね。
おまけ1
附馬牛に来たら、ついでではありますが安居台の猿ヶ石川にいる白鳥をみなければならない・・・・笑・・・。
まだ数は揃っていないという雰囲気ながらも鴨、白鳥共に十数羽位か・・・・。
動きのある絵は撮れなかったけど一応、3枚程・・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/02/384d207367d8b028c0ad479e057aa995.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/59/a6b74c3c03169b62f9d3903927bf9628.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/f0/da60141ee87a8c53704dfb8962ef183a.jpg)
どうも白鳥をみると「志村けん」を思い出すんですよ・・・・笑
おまけ2
息子を床屋に連れて行っての帰り・・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/ff/51bfc1642aaa8034df1d91cf0d145611.jpg)
おまけ3
ネネの下半身
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/ed/f05b3c55d9b84a233e386edf81954f20.jpg)