期待度特Aと勝手に自分では盛り上がっておりました附馬牛町の根岸館を探訪して参りました。
朝早くから家の障子の張替え作業、頃合を見計らって早期に探訪したいと考えていた根岸館を探訪すべく愛車を走らせる。
根岸館のある山野
火渡館跡との境目の草地から山野進入、少しきつめの尾根を登ると、例の資料に書かれた空掘跡に遭遇する。
東南端の空掘跡
どうやら一重堀のようだ
空掘の上部及び南側には斜面に張り付く階段状の帯郭がびっしりと張り付いている。
頂部は比較的広い平場が北に向っているが、少し進むと空掘で仕切られている。
東南側が2の郭、北側の平場が主郭といった形状で、ふたつの比較的大きな郭によって構成されている館のようだ。
2の郭との境、堀切・・・主郭側から
さらに資料には門跡とわかるふたつの土塁跡があると記述されているが、おそらくこれだろう・・・。
門跡
画像では少しわかりずらいが、確かにふたつのこんもりとした土塁跡であり、門跡なのかもしれない。
主郭は南北約25メートル、東西約20メートル、東側に3段、北側は一重の堀切、さらに峰で続く山野には水路跡とされる溝がはっきりと残されている。
水路跡
この水路は尾根を伝って隣接の火渡館に繋がっているとか・・・今回は確認せず。
主郭の背部から流れる空掘は一重であるが北西側は・・・
空掘のバイパス・・・笑・・・土塁で二つに分かれるも下部でひとつになって西側へ・・・・。
帯郭
根岸集落がある南西側を正面と見るべきか?・・・大き目の帯郭が整然と8段ほど確認できる。
2の郭、南西側の帯郭
しっかりとした大き目の帯郭が特徴といった雰囲気で、斜面に整然と配置されている。
その残存度も極めて良好で、雑木林ということもあって陽が入って明るく歩きやすい。
正味1時間半程度の探訪でしたが、いつものことながら、この時間内では図面も描けず、今回は大よその形状と雰囲気のみを感じたに過ぎないと思われます。
北西側の空掘跡を辿って下山すると中腹に・・・・
根岸稲荷神社
麓の根岸集落に鳥居が二つ、この社まではほぼ真っ直ぐな登りとなっている。
いずれ、高感度得Aの館跡、もう少し何度か通って調べてみたい館跡の一つでもあります。
隣接の火渡館が築かれる前の火渡氏の居館とも説かれますが、確かに根岸館の方が古いといった印象でもあります。
山頂のところどころに見られる穴は何を意味するのか、安倍時代の竪穴式住居ともとれますが、しかし、館の構えは戦国的といった雰囲気も十分でもあり、何よりも遠野においては館域が広く大きい部類の館でもあります。
館主は、相当力ある一族だった可能性がありますが、例の如く、何一つ伝承されていないこと、隣の火渡館の事績やその存在は地域でも語られるも、火渡館と遜色がない構えの館にも関らず何も語られていない。
遠野にはこうした館跡があまりにも多いということ、武族の栄枯盛衰に関して口を閉ざす何かがあったのだろうということになりますが、これもまた厄介な懸案ということで、まずは徐々にということになりますね。
ということで、なかなかの規模、そして遺構の残存度もかなり良好、思っていた以上のすばらしい館跡でありました。
おまけ・・・・山猫さん、事後承諾ということでお許しください。
2007、遠野ぶれんど忘年会が開催・・・
妄想親不孝通り
朝早くから家の障子の張替え作業、頃合を見計らって早期に探訪したいと考えていた根岸館を探訪すべく愛車を走らせる。
根岸館のある山野
火渡館跡との境目の草地から山野進入、少しきつめの尾根を登ると、例の資料に書かれた空掘跡に遭遇する。
東南端の空掘跡
どうやら一重堀のようだ
空掘の上部及び南側には斜面に張り付く階段状の帯郭がびっしりと張り付いている。
頂部は比較的広い平場が北に向っているが、少し進むと空掘で仕切られている。
東南側が2の郭、北側の平場が主郭といった形状で、ふたつの比較的大きな郭によって構成されている館のようだ。
2の郭との境、堀切・・・主郭側から
さらに資料には門跡とわかるふたつの土塁跡があると記述されているが、おそらくこれだろう・・・。
門跡
画像では少しわかりずらいが、確かにふたつのこんもりとした土塁跡であり、門跡なのかもしれない。
主郭は南北約25メートル、東西約20メートル、東側に3段、北側は一重の堀切、さらに峰で続く山野には水路跡とされる溝がはっきりと残されている。
水路跡
この水路は尾根を伝って隣接の火渡館に繋がっているとか・・・今回は確認せず。
主郭の背部から流れる空掘は一重であるが北西側は・・・
空掘のバイパス・・・笑・・・土塁で二つに分かれるも下部でひとつになって西側へ・・・・。
帯郭
根岸集落がある南西側を正面と見るべきか?・・・大き目の帯郭が整然と8段ほど確認できる。
2の郭、南西側の帯郭
しっかりとした大き目の帯郭が特徴といった雰囲気で、斜面に整然と配置されている。
その残存度も極めて良好で、雑木林ということもあって陽が入って明るく歩きやすい。
正味1時間半程度の探訪でしたが、いつものことながら、この時間内では図面も描けず、今回は大よその形状と雰囲気のみを感じたに過ぎないと思われます。
北西側の空掘跡を辿って下山すると中腹に・・・・
根岸稲荷神社
麓の根岸集落に鳥居が二つ、この社まではほぼ真っ直ぐな登りとなっている。
いずれ、高感度得Aの館跡、もう少し何度か通って調べてみたい館跡の一つでもあります。
隣接の火渡館が築かれる前の火渡氏の居館とも説かれますが、確かに根岸館の方が古いといった印象でもあります。
山頂のところどころに見られる穴は何を意味するのか、安倍時代の竪穴式住居ともとれますが、しかし、館の構えは戦国的といった雰囲気も十分でもあり、何よりも遠野においては館域が広く大きい部類の館でもあります。
館主は、相当力ある一族だった可能性がありますが、例の如く、何一つ伝承されていないこと、隣の火渡館の事績やその存在は地域でも語られるも、火渡館と遜色がない構えの館にも関らず何も語られていない。
遠野にはこうした館跡があまりにも多いということ、武族の栄枯盛衰に関して口を閉ざす何かがあったのだろうということになりますが、これもまた厄介な懸案ということで、まずは徐々にということになりますね。
ということで、なかなかの規模、そして遺構の残存度もかなり良好、思っていた以上のすばらしい館跡でありました。
おまけ・・・・山猫さん、事後承諾ということでお許しください。
2007、遠野ぶれんど忘年会が開催・・・
妄想親不孝通り