「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

遠野郷・釜石村

2008-09-19 20:50:51 | 遠野
 台風の影響で曇り空となるのか?なんて思っていると、本日も朝から晴れ渡り少し気にかかることがあって綾織へ・・・・。


 千葉家南部曲屋






 綾織に行ったついでに千葉家付近まで足を延ばしてみましたが、本題は釜石村・・・。
 この釜石村とはいったい何処を指しているのか?ちょっと確かめたくて綾織地内と市立図書館をまがってみてきました。



 釜石村
 寛永4年3月19日 南部利直 墨印 拾戸遠野村付の目録

 釜石村・・・99石232合

 寛永11年 八戸家諸士の俸禄
 釜石村は新田弥市郎(新田義実)の知行所


 釜石村とくれば沿岸の釜石(釜石市)を思い浮かべてしまいますが、先人郷土史家の中にも当初、沿岸の釜石を連想された方々もいたのだろうと推察されます。

 慶長6年、遠野騒動(旧主阿曽沼広長気仙落)での主要人物、3番手柄といわれる平清水駿河(本姓菊池)が釜石を含む遠野郷内に1千石を南部利直より賜る・・・という記述からも伺われますが、現釜石市との関連は平清水氏の血縁といわれる荒谷肥後が釜石狐崎館の守将として居たこと、そんなことから釜石に縁ある平清水氏に与えられたのだろう・・・という思いもいたします。
 史実として釜石(沿岸)が平清水氏の知行地だったかもしれませんが、未確認である。
 江戸初期、遠野阿曽沼氏没落後は釜石は大槌氏の領分ではなかったのか?無論それ以前から・・・?・・ここでの釜石村とは綾織の釜石村ではないのか?


 ということで、史料で出てくる釜石村とは、閉伊郡釜石村、現遠野市綾織町の一部に釜石村が存在したこと、これは前段で記載の南部利直より八戸弥六郎(直義)に与えられた墨印でも記述され、存在した村でありました。

 綾織村誌、遠野市史4では、陸中国閉伊郡新里村は釜石村と明治9年合併して一村となる・・・とある。
 すなわち釜石村は現遠野市綾織町新里地内の内にあったことになりますが、以前の記憶が曖昧ながら、誰の言葉かこれも忘れましたが、確か中宿の辺りが釜石村だったと聞いたような・・・。
 ですから中宿界隈を中心とした地域が旧釜石村というイメージが先行していたこともあって、時折、釜石村に関してエントリーする際はと中宿辺りの風景やら画像を少し撮り貯めておりました・・・。


 綾織出身の母親の裏覚えの記憶によると、新里根岸の辺りに釜石という大石があったと聞いたことがあるという・・・早速、図書館にて郷土資料をめくると、確かに古地図(手書・綾織村誌)、根岸と寒風の中間辺りに釜石と書いてある。
 なんでも釜形の大石が山中にあって、下部からは冷泉が湧き出ているとか・・・この釜石の大石がある下の地は釜石前ともいわれていたようです。

 本来の釜石村は根岸辺りが主で、この辺りから南西側に伸びて宿辺りまで、現在綾織町新里の地名となっている範囲ではないのか?と想像しております。

 旧新里村は猿ヶ石側の南側、我丸、西風館、日影・・・か?・・・いずれ地元の詳しい方からお聞きすればその全容は明らかになるものと思います。
 
 今宵はこれまでといたします・・・・笑


 綾織町新里 根岸集落


 画像右側の山野は阿曽沼時代、みさ崎氏の居館跡「西門館跡」




 ときたま夕焼けハンター・・・笑







コメント (12)
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