「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

金成淵跡

2008-09-20 19:52:47 | 歴史・民俗
 本日のエントリー関連のとある場所にまずはお参り・・・。

谷地館跡(遠野市綾織町)・・・遠野遺産




○宝徳合戦と金成右京大夫政実・・・金成淵

 谷地館主、宇夫方守儀の時代、宝徳2年(1450)隣国葛西領気仙郡東山の金成政実が率いる軍勢が突如として綾織谷地館を攻撃する。
 谷地館の宇夫方氏は遠野でも富裕の武家であり一族郎党も多く、不意の攻撃をよく凌ぎ、さらに鱒沢氏、宮森氏が谷地館救援の援軍を差し向けたので、葛西勢は攻めあぐねて籠城戦となった。
 
 籠城戦となるや葛西勢は山谷川をせき止めて館を水攻めとするが、達曽部民部、稗貫大迫の大迫掃部が大軍を率いて来援すると谷地館側も力を得て反撃に移り、寄せ手の大将金成右京政実は討ち取られ、葛西勢は散散に敗れて敗走したといわれる。

 この時、政実の嫡子、松千代は13歳の初陣であったという・・・・。
 敗走途中に遠野方に討ち取られてしまったという。土地の人々はその死を憐れみ墓を作って弔ったという・・・。

 後日、その母親が松千代の墓参りに来たというが、悲しみのあまり猿ヶ石川の淵に身を投げたと伝えられる。


 猿ヶ石川・・・綾織町札場橋から上流方向



 さて、金成右京大夫政実の奥方が身を投げたという淵は・・・・ということになりますが、小生の母親や叔父の話によると、アイオン台風で水害が出る前までは、猿ヶ石川は現在の堤防の南側を流れていたそうで、日影橋の南側袂を流れ、山際を通って現在のゴミ処理場辺りも川原であったという・・・。

 母親の母(私からすれば祖母)は新田の出身で、母親が子供の頃に新田に行く際は、山道の下部に猿ヶ石川を見ながら新田に行ったそうです。
 途中、流れが渦巻く淵があって、その場所が地元では金成淵と呼ばれていたそうです。

 この淵の上部山中には戦いで亡くなった武士の鎧を埋めた塚があるとか、一説には寄手の大将、金成政実の鎧ともいわれている。


 綾織町新里日影地区・・・山際を川が流れていた。


 旧河川跡

 
 綾織町新里、西風館・・・右手の道路は旧国道283号
 ビニールハウスの辺りは猿ヶ石川が流れていた。

 その名残




 ということで、ここまで来たので遠野遺産である「西風館跡」はどうなっているのかと気になり訪ねて参りました。



 遠野遺産ということで、若干人が出入りしただろう雰囲気がみられますが、小生のような城館跡マニアや研究者、そして地元の山稼ぎの人達のみ、年間10名未満が訪れるだけではないのかな・・・なんて思ったりして・・・。




 標識のある場所は館跡の東端部分ですが、本来は・・・・


 こちらが正面といいますか、力攻めの場合はこちらから・・・冬枯れの季節、早春の頃は斜面に張り付く幾えもの段差、帯廓が見えると思います。




 さて、本来は本日、こちらへお邪魔しようかな・・・と考えておりました。





 松崎町光興寺宮代・・・元八幡宮例大祭
 こちらのお祭りに行こうと思ったのですが、どうせならイカ焼きを肴に生ビール片手に郷土芸能やら出し物を楽しみたいが本音、しかし、嫁さんは仕事で送迎は叶わず、では歩いていくべ・・・と思うも面倒になって取りやめといたしました・・・汗・・・来年は是非にお邪魔したいと思ってます。


 宮代ついでに・・・
 宮代ご出身でフランスにお住まいの女性からお土産をいただく・・・謝

 なんでも仏国の鯖缶で、マスタード味とか、白ワインと合いますよということで・・・・。




 でっ・・・たまたま白ワインがありました・・・笑



 「う~ん・・・こまんたれぶっ~★■●▽△らセーヌ・・・おっぉぉシャンゼリゼ・・・」・・・なんともいえないはじめての味・・・これは行ける・・・そこで母親にも勧めると・・・・

 「ありゃ、いい色っぺの粕漬けだごと、鯖の粕漬け、こりゃいい・・・」
 「フランスに粕あるわげねぇべ」
 「ほだじぇなぁ・・・奈良漬だなこりゃ・・・」・・・大汗

 大騒ぎな夕食となりました・・・笑
コメント (10)
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