「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

南部火消

2008-09-08 13:59:39 | ファイヤー
 朝から青空が広がる遠野、それなりの暑さも感じられるが、吹きわたる風は秋風であ~る・・・宝飯爺方式・・・笑


伝承園で捕まえた青空・・・。







〇南部火消の祖

 江戸時代における大名火消といえば私的ながらも第一のイメージは加賀火消を思い出す、そして次にこれもなんの根拠もないのですが「南部火消」とくる・・・。

 しかし、消防に関わる仕事をしていると随所で南部火消の言葉、文字に遭遇しており、どこか南部火消の言葉と共にそのイメージに憧れを感じたりしております。


 さて、南部火消の根源は何か?当然ながら南部藩で組織した消防隊ということになりますが、少し資料を紐解けば・・・・。


 延宝4年(1676)10月、南部太守であった南部重信は幕府より江戸丸の内大手町一帯の火消し役を仰せつかったとある。
 しかし、南部重信公は老齢でその任に堪えないということで、一族一門の中からその代理役を検討し、遠野城主で遠野南部家第二代、八戸三五郎義長公(後の弥六郎義長)に白羽の矢を立てたと言い伝えられている。

 命を受けた義長公は遠野武士を以て消防隊を編成して江戸に上って火消しの任とあたったとされている。
 南部火消といわれるその元祖の名目は南部藩による大名火消ではあるが、その実情は遠野武士、すなわち遠野八戸家による消防隊であり、南部火消の元祖ということになると思います。(遠野古事記には、当時のその模様が掲載されている)
 遠野武士による江戸詰めは翌年の8月まで続いたと記録されている。

 なお、八戸義長公は三五郎と称していたが、父弥六郎直義公が名乗っていた弥六郎の襲名を太守南部重信公から許され、八戸氏(遠野南部家)については後の歴代公は弥六郎を名乗っている。


 次に遠野南部火消について伝えられる内容としては・・・・

 元禄9年1月、七戸外記(太守南部行信の弟、1千石)と共に八戸家第三代八戸義倫公(よしとき)は盛岡城下の火消役の任を仰せつけられる。
 相役の七戸氏は太守行信公の弟で名門であるが1千石余りの知行高に過ぎず、南部家中第一の家、八戸家は一万二千石を超える大身の家柄、人員もその費用のほとんどを遠野方で負担していたと語られる。

 この時代、火消役すなわち消防隊の編成は戦支度と同じで、その隊列、陣構えは戦時と同じであったという。
 盛岡城下での遠野武士による消防隊は100名以上がその任にあったと伝えられるが、交代要員も含めるとその倍の人員とも考えられ、当時1万石辺りの諸侯の兵員(武士階級)は250名といわれるので、一万石強の八戸家(遠野)の家臣のほとんどが盛岡城下の火消の任に何かしら携わったことになるかもしれません。

 この義倫時代、盛岡城下の火消の任と共に遠野城下での火消役を家臣の中から定め、これが遠野での組織的消防の創始と伝えられている。

 
 昭和30年代辺りまでの消防屯所のイメージ

 たかむろ水光園内、ふるさと消防館


 街場の消防屯所として当時の面影を残す旧下組町消防屯所



 現在の消防屯所・・・消防コミュニティセンター





 タイプ的には旧遠野市分は9割以上が画像のようなタイプとなっており、消防屯所と地域、集落集会場が併設されているものとなっている。






 八戸弥六郎義倫公が創始した武家火消に対し、町方の組織的火消の創始については詳しくは伝えられていないが、火災が発生した場合は各戸から1名の男子が出る決まりがあったとか、本格的な遠野での町方による火消は文久3年(1863)城下の床屋職人による町火消だったようです。
 これが今でいう義勇的消防組織、すなわち消防団の元祖といえます。

 その後の明治16年(1883)県令による公設消防組発足により、その伝統精神は消防団に受け継がれているものと思います。





 おまけ

 リンゴの季節到来ですね。





 下組町の大叔父宅前の無人販売所

 母方の大叔父は長らく消防団員として地域防災に活躍されていた。
 50数年の長きにわたる消防団活動、部長という階級でその役目を終えましたが、退団する頃、「オレの方が副団長だの団長より長く勤めている」と誇らしげに語っていたのが印象的でした。
 部長という階級ながらも叙勲の栄誉を受けている。
   
コメント (12)
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